公益財団法人 禅文化研究所

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調査研究

オウム真理教問題研究報告 1.「オウム事件」とは何か

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II.研究討議を経ての見解

1.「オウム事件」とは何か 

我々は、いわゆる「オウム事件」に対しては何か言い知れぬ“おぞましさ”、本能的とも言える反感を感じつつも、オウム真理教に惹かれていった信者の心情には何かある種の同情、放置しておけない何か共感めいたものを感ずる。「オウム問題」は我々にとってこのような二面性をもった一つの出来事である。「オウム事件」に対して我々がいだく反感の原因は、この事件によって我々現代人の根本信条、現代社会の根本理念が危険にさらされたというところにある。この事件は、これまで我々が持ちつづけてきた、あるいは持とうと努めてきた “人間性(人が人であるというそのこと)への信頼”を根本的に危ういものにした。すなわち、「いくら何でも、人としてそんな事はできまい」という我々の根本信条・ 社会構成の根本理念がこの事件によって、まるでそれが我々の単なる幻想であったかのように、実にあっさりと破られたのである。

地下鉄サリン事件直後に首都東京をつつんだ恐怖と不安と相互警戒心の異様な雰囲気、日本政府のみならず海外諸国政府のすばやく過敏とも思える反応、これらは、この事件がただの犯罪事件ではないことを我々にうかがわせるものであった。そして、何よりも我々自身が名状しがたい異様な興奮を感じた。それは、我々の奥底で何かがこわれて、どうすべきかは解らないながらも、じっとしておれないような、異様に高ぶった気分であった。我々がこの事件をおこした者たちにいだく、宇宙人に対するような違和感や異質感、とてつもない犯罪の背後にある“マンガチック”で現実離れした世界観とその余りにも稚拙な理論に対する驚き、しかもその世界観を信じその理論を“まじめに”かつ“無感動に”実践する彼らの態度の底知れぬ不気味さ、彼らに対して我々がもつこのような“不信”と“不可解さ”そのものが、これまで「人間ならばそんな事はすまい」と思ってきた我々の根本信条、言い換えれば、近代ヒュウマニズム(人道主義)そのものの大前提が、我々の目の前で瓦解しかけたことの何よりの証しである。

現代という時代を形成し、その文化や社会構成の基礎になっているのは“人間性への信頼”である。人間が自分自身の内にもった根本的な自信と、その自信に裏打ちされた人間どうしの相互信頼、こうした自信と信頼とに立脚した立場が“近代ヒュウマニズム”と呼ばれているものである。近代諸科学はこの近代ヒュウマニズムの学問である。

すなわち、宇宙や自然界を、神の創造という観念から自由になって、人間の肉眼に映ずるままに、そしてその限りにおいて、整合的・ 体系的に捉えようとして自然科学は起こり、神から託された使命という観念から自由になって、我々が直接に接している在るがままの人間を在るがままに捉えようとして人文科学は発達した。このようにして、自然界はその様相を一変して、もはや神のしろしめす被造物の世界ではなく物理的因果法則の支配する物質界となり、人間もまた神の似姿から猿の進化という在り方に変わった。すべては地上化し、すべての“もの”は人間の目の高さで計測され評価されるものになった。近代ヒュウマニズムは人間を神の手から解放し、近代科学は人間を宇宙の中心にすえた。こうした近代の精神には、もはや、無常な「この世」を包み超えて永遠の「彼の世」があるというかつての二重構造の世界観は単なるお伽話の世界のように映る。

この精神にとって世界は、人間が見通すかぎりの、どこまでも均一に広がる一重構造の世界であり、もはや神の名によって阻止されるところのない無限に探求可能な空間である。この無限空間、すなわち、ここからは神聖にして犯してはならぬ神の領域という限界を原理的にもたない均一化した宇宙世界、その中心に人間がいる。近代ヒュウマニズムはこのような意味での人間中心主義である。この宇宙世界に世界としての統一を見いだし秩序を与えているのは人間であり、その秩序構築の基礎になっているのは“人間という存在”によせる人間自身の信頼である。近代ヒュウマニズムはこのような“人間性への信頼”を基盤とする人道主義である。近代の歴史形成・ 社会構成の基本理念となってきた「自由・ 平等・ 博愛」、すなわち“人間である”ものの基本的人権の確立という要請も、その正当性の基づくところは“人間性”への限りない信頼にある。近代人は、神ではなく人間という存在を信じて、社会を構成し歴史を形成してきた。

しかし「オウム事件」は、我々が培ってきたこの信頼を根底から瓦解せしめ、我々がこれまで了解してきた“人間”という存在を改めて“不可解”で“不気味な”存在におとしめた事件である。この意味において「オウム事件」は、近代ヒュウマニズムに対する挑戦という性格をもった事件であると言え、そこに、我々が本能的に感ずる言い知れぬ“おぞましさ”と、この事件に対する各国政府のすばやく過敏な反応の原因があったと言える。

それにもかかわらず、我々が「オウム信者」たちにある種の同情ないし共感めいたものを感ずるのは何故であろうか。この原因もまた、我々が「オウム信者」たちに近代ヒュウマニズムに対する挑戦の姿勢を見て取ったところにあるのではないであろうか。近代ヒュウマニズムは、上記のごとく、人間中心主義である。近代ヒュウマニズムの成立は、人間が万物の統括権と管理権とを自己の手中におさめたという人間の宣言である。もはや人間の手のおよばぬところは何処にもなく、「彼の世」(神)すら消しさったその手をさえぎるものは何もない。そして、その手は人間自身にもおよぶ。この人間の手から人間自身も逃れることはできない。近代ヒュウマニズムの進展は、自然環境のみならず、個々人の心の底までも人間によって操作され管理された社会を産みだす。今日すでに我々はそういう社会を構築し、そういう社会に住んでいる。現代社会は我々個々人の自主性とか主体性を尊び育てる社会のようでありながら、その主体の内容をマスメディアにのったコマーシャルやニュース解説や世間にとびかう情報や社会的常識や流行といったもので埋めつくして行く社会である。流行におくれることは怖く、情報や常識を知らないでは個々人の、また組織の、社会的生命がおびやかされる。このように、それらは匿名の権威として個々人の心と各種の社会組織を支配し操作し、漠然とした世論となって社会を管理している。ここには特定の真の権力者はいない。この社会を支配しているのは時代の趨勢とか世論とか情報とか常識といった匿名の権威、言い換えれば、我々個々人の近代ヒュウマニズムの信条そのものである。現代社会は、この匿名の権威のもとに我々みなが我々みなを拘束し管理し支配している社会である。この社会の個々人は匿名の権威に服従しつつ、大同小異の平均化された大衆の一員となり、世論の一サンプルたる意見を発言する存在にすぎない。そして、その大衆一人ひとりの意見がまた匿名の権力となって自主的であるべき個々人を拘束し支配し大衆化して、かけがいのない個々人の個性を窒息させてゆく。近代ヒュウマニズムは、人間を神の手から解放することによって、人間を人間の業縛の手にゆだねてしまった。

しかも、一重構造化した世界においては、この業縛の手をのがれて人が憩いうる別の世界はもはや残されていない。現代世界は、人間が人間自身に、「人間である」ことに、息苦しさをおぼえ、人間自身に病みつつ、しかもこの世界の他どこにも行くところをもたない閉塞した世界である。現代人は、言いたいことを言い、したいことをする自由を謳歌しながら、どこか根本的に満たされず、ひそかに、いまの自分とは違う別の本当の自分、いまの此所とは違う自分の本当の居場所を求めて、人の手を拒否しつつ孤独の中に逃れようとしている。

近代ヒュウマニズムは「人間性への信頼」に基づいて成立している。しかしその「人間性」はまた人間的業縛という性格をもったものでもある。近代ヒュウマニズムの進展につれてその最も進んだ先進工業諸国の社会に、さまざまな形態をとりつつ、その社会を拒否しその俗物性に対して挑戦をしかけながら社会から孤立して自らの神秘的体験のうちに閉じこもるカルト集団(特殊的少数者の神秘的儀礼集団)が発生してくるには理由がある。それらは、人間自身に息苦しさをおぼえ人間自身に病み疲れた近代人たちの、閉塞世界からの脱出の試みという性格をもっている。そして、このような、物質的というよりもむしろ精神的・ 文化的な悩みを共有しあう中心は、豊かな社会の豊かさを享受している若者たち、しかも自分の現在や将来に自分ではどうしようもない閉塞性を敏感に感じとるだけの才能をもった若者たちである。現代のカルト集団はその社会の中流に属するインテリ青年層を中心にしている。広い視野から見れば、「オウム真理教」もまたこのような性格をもった一つのカルト集団と見ることができる。そして、我々が、「オウム事件」には本能的な憤りをいだきつつも、「オウム真理教」に惹かれて行った若者たちにある種の同情をもつのは、彼らの姿に現代社会に悩める者の姿、現代社会の犠牲者の姿を認めるが故であろう。つまり、彼らとともに我々自身が、この現代社会のあまりにも人間化されたその閉塞性に病むが故であろう。「オウム問題」に対する我々の反感と共感は、我々がこの問題に、善かれ悪しかれ、近代ヒュウマニズムに対する“破壊”と“超克”の二面性をもった“挑戦”を認めるところに由来している。
 
>>2.「オウム教団」とは何か
>>3.なすべきことは何か