お盆を迎えて、人の一生を想う


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先般、113歳の東京都最長寿の男性が、実は30年ほども前に亡くなっていたというニュースが取りざたされ、各地で100歳を超えた老人の所在確認がはじまっている。既に40人以上の人が所在不明とのことで、驚かされる。全国で4万人以上もいるようだが、実在されるのはいったいどれだけだろうか。
個人情報保護法の影響で、民生委員や官庁が所在を確認しにくい状況になっているとはいえ、大した確認もしないで、年金を支払ったり、長寿の御祝をさしあげたりしてきたというのは、お役所の無責任極まりないのは言うまでもないが、それよりも驚くのは、どうして家族や親族が、その所在を知らないのかである。
100歳を超えた、あるいは超えていなくても、永きを生きてこられた方が、忽然と消えるはずはないのである。猫じゃあるまいし、人に見えないところで死んでしまうということも、人である以上、そう簡単にできることはできない。もちろん、亡くなっているのに死亡届も出さないで埋葬することなどできない。したら死体遺棄である。
では、この所在不明の老人たちはいったい、どこでどうやって身罷ったのだろう。不思議でならない。
昨今、家族葬なる新語があらわれ、いつのまにやら首都圏では40%もが、葬儀をしないで火葬に伏して、一生はそれでおわり、だそうである。
それどころか、今回の事件で、自分にこの世に産んでくれた父母、あるいは親族が、いつ死んだかどうかもわからず、所在も不明なのに、何も考えないで長年を過ごして来ている人達が、こんなにいるのだということが露呈したわけだ。
私たちは誰一人として、この世に、自然発生した者はいない。先祖から、もっと言えば生物発生の時から、一度も途切れることなく受け継がれてきた命の縁によって、父母によってこの世に産んでもらったのである。とすると、産んでくれた両親が亡くなったとき、礼をもってお見送りするのが当たり前ではないか。
自分の両親は2人、その両親である祖父母はそれぞれ2人で4人、その両親である曾祖父母は×2で8人。そして10代前になると1024人の縁者がいるわけだ。そこまででも全部合計すると2046人の縁がないと、此の身はこの世にないわけだ。
当たり前だが、この当たり前を忘れてしまって、現代人は先祖への崇敬の念ををおろそかにしていないだろうか。
お盆を迎えるにあたって、自分が今生かされていることの意味とともに、先祖からずっと繋がっているこの命というものを今一度考え直して、ご先祖とともに、生きとし生けるもの、三界万霊に供養をしていただきたいと想う。
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