-平常心是道(へいじょうしんこれどう)-
今回も馬祖道一禅師の語録から、一般的によく知られている語を採り上げてみました。馬祖の唱えた禅は、自分で「雑貨舗」と読んでいるほど、実に生活に密着した生き生きとしたものです。『馬祖の語録』(禅文化研究所刊・絶版)を読むと、後に臨済が出てきて言いそうなことは、もう既に馬祖が先取りしていると言っていいほどです。
「平常心是道」という禅語は、馬祖が弟子の問いに対して答えた語ではありません。馬祖がある日、廊下の辺りで、その場にいる門人たちに説いて聴かせた、いわゆる「示衆」の中に出てくる語として記録されています。その部分を訳すと次のようになります。
仏道というものは、わざわざ坐禅修行して手に入れるものではない。ただ汚染されなければいいのだ。では何を「汚染」と言うのかというと、生死ということが気になってわざわざ修行したり、何か生死を脱出したいというような目的を持ったりすること、それが汚染というものだ。もしズバリと仏道を手に入れたいと思うなら簡単、「平常心」つまり平常な心でいること、それが「仏道」なのだ。
では、「平常心」とはどういうものであるか。それは、わざわざ修行などしないこと。これは善いこと、これは悪いことなどという価値判断も要らぬ。取捨選択というような選り好みもしない。この世界にはいつまでも無くならないような永遠な実体があるとか、もともと何にも無いんだとかいうような固定観念を持たない。また、これは凡人の見方だとか、聖者の見方とかいうものを持たないことを言うのである。
まあ、この場に於ける馬祖の示衆はざっとこういう内容なのです。私たちは日常生活に於いても常に是非、善悪、美醜というように、物を二つに分けて相対的に価値判断します。実際、そういう分別が無いと、日常生活はできません。そして私たちは、そういう分別をすることによって、無用な神経をすり減らしつつ、生活しているわけです。
この「平常心」という言葉は、日常心と間違えやすい言葉ですが、よく見ると両者はまったく質の違う心なのですね。つまり私たちは日常生活のなかで、あれやこれやと心を配ってへとへとになって暮らしていますが、そうかと言って心を使わないでは、生きることはできません。それどころか心は活き活きと働かせなければならないのです。
しかし、そのような心配りが「心配」ということになっては、精神はへとへとになってしまいます。心配りは必要ですが、その心配りに振り回されてはいけないということでしょう。すると馬祖の言う「平常心」とは、「揺れ動くことのない心」、「バランスのとれた心」というような意味になると思います。
軽率に「日常の心こそ仏道だ」と言ってしまうと、はっきり間違いですね。複雑でせわしい日常生活のなかで、活発に心を働かせながら、しかもそういう周りの事柄に引っ張り回されないような「不動の心」、それこそが「平常心」というものでありましょう。そういう心で毎日を送ることが、「仏道を行じる」ということになるようです。けれども「言うは易くして行うは難し」ですね。
「仏道」というものは、実はそのようにわれわれの足下にあるのです。それをわざわざ修行して求めようとすることが間違いのもとだというわけです。われわれはどうしても毎日の生の苦しさから、どこか別に素晴らしい生き方があると思ってしまいます。それが却って私たちの中に具わっている尊い平常心を、「汚染」してしまうのだ、という馬祖和尚の親切な指示なのです。