特別展樂吉左衞門還暦記念Ⅰ -樂美術館-


101029.jpg

こちらのブログではもうおなじみ、京都市上京区にあります樂美術館
12月12日まで、【特別展樂吉左衞門還暦記念Ⅰ】が開催されています。
樂家は、当代で15代を数え、代々樂焼を一子相伝にてつくり続ける家ですが、そのような家に生まれ、仕事をするようになってから、還暦を迎えるまでの折々の思い出深い茶碗が、ご本人の解説付きで楽しめ、当代の来し方を走馬灯のように拝見し、それでいながら深く味わえる素晴らしい展観でした。
先祖代々、同じものをつくり続けながらも、やはり同じではいけない。それが精神的にどのような重圧感を抱くものか、私どものような者にはわかるはずもありませんが、人生において、どんな人でも皆それぞれに今世でなすべき事、悩み、苦しみ、課題はあるわけで、それを受け入れ、葛藤しながらも乗り越えて歩んで来たからこそ、樂さんはあんなにも人々を魅了する方なのだと改めて思いました。
父親からは一切何も言われた事も、教わった事も無く、見て盗めの世界。若かりし頃の樂さんは、盛永宗興老師のもとへ、自身が作った茶碗を持ってよくでかけられたのだとか。
「坐禅せんでも、仕事机の前に坐っておればいい」、「禅坊主も茶碗屋も同じやわなぁ」。とは、老師が樂さんにかけられた御言葉。


季刊『禅文化』212号に、福井謙一氏夫人の福井友榮さんに寄稿いただいておりますが、その中に私がとても好きで忘れられない文章があるので、ここにご紹介させていただきたいと思います。

 五月の空は蒼く染まるほど晴れ渡り、私は心急いで大珠院にうかがい、門に一歩踏み入れたところ、この日の大珠院は、障子も襖も広く明け放し、何時も来客を接見される小さいお部屋の南側の襖もあけてあったから、新緑のお庭からも鏡容池からも、陽光が燦々と降りそそいでいる。思わず立ち止まり、お部屋の方に目をやると、降りそそぐ光を背にして、先客のお姿が逆光のなかに見えてきた。その逆光のなかの若い青年は、少しおかっぱ風の長髪で、両腕を左右にかまえ動かしながら、しきりに老師とお話をされていて、その都度、長髪が風と共に、サラサラと音を立てるように振れ動くのである。その背景が新緑と蒼空であるから、まるで一枚の絵画のように、くっきりと印象に残っている。

 青年が間もなく帰られたあと、私がご挨拶申し上げていると、老師はその青年の余韻を楽しむように、「あれ(青年)はなア、樂家の十五代目でのお、時々、難しいことを聞きに来おって、儂を困らせよるんじゃ」とお顔はとてもうれしそうにおっしゃった。ついで、「代々つづくご先祖の仕事を継ぐということは、並大抵のことでないじゃろう」と少し思い入れの深いお声になったご様子が今でも懐かしく思い出される。

季刊『禅文化』212号 -盛永宗興老師のこと- より

ありありと目に浮かぶ樂さんの若かりし頃の姿。そして現在の姿を自身の中に思い出し、なんともいえない感慨深いものがこみあげるのです。
若い頃から参禅された方の持つ清々しさ、チャーミングさ(ダライラマ猊下が、慈悲深い人は必然的にチャーミングになるのです、と仰っています。そういった意味でのチャーミングです)、飄々とした感じ、かなり哲学的な事を仰るかと思えば、少年のように無邪気な笑顔を見せられるお姿。強烈な個性がありながらも“無私の人”というのでしょうか。
茶の湯の稽古をする者のはしくれとしても、千家十職樂家の当主があのような方である事は、非常に嬉しい事です。
また、禅と茶の湯の文化、これらの繋がりを身近に、生きているものとして味わえる京都に住まう悦びをひしひしと感じるのでした。