以前にもこちらのブログでご紹介させていただきましたが、“森のイスキア”主催の、佐藤初女さんご本人が神戸に来られるとの事で、講演会にお邪魔してきました。
受付で、白い紙を手渡され、「先生が、“分かち合い”の時間として皆さまからのご質問におこたえくださいますので、こちらの紙にご質問があればお書きになってください」と。
“分かち合い”。
なんて良い響きなのでしょうか。講演会だからと言って、一方的にお話されるだけでなく、皆が参加してその場を作る……という所に、初女先生らしさを大いに感じました。
お話なさった事は全てが真理のように思えましたが、中でも、「その人と同じ立場、同じ気持ちになって話を聴きます。ただ聞いているんじゃないんです。話したい事を話して空っぽになれば、そこに新しいものが入ってゆけます」と仰った事が印象的でした。
弊所刊行の、『歩々清風』(堀内宗心著)の中で、宗匠が仰っている事を思い出しました。
お茶を含めて、人を指導するということはひとつの菩薩道であります。菩薩の指導法は、つねに相手と同じ高さまで身を落として、すなわち身を低めて、そうして人を引き上げるということであります。荷物の集配所で働いているリフトのように、その人のところへ行って、荷物と同じ高さまで支台を下げて、荷物を持ち上げ、目的地に持っていくのであります。これは済度するということであります。決して高いところから叱咤号令するのではないのであります。
『歩々清風』-お茶をおしえるという事-より
初女さんの生きる道は、菩薩道だな……と思えたのです。これはあくまでも私の捉え方であって、彼女自身はクリスチャンですし、「ボランティアというのとはちょっと違うと思うんです。私は奉仕だと心得ています」と仰っていました。
淡々とお話されるのですが、どこかユーモアがありチャーミング。「慈悲深い人は必然的にチャーミングになるのですよ……」とは、ダライラマ猊下の御言葉ですが、私が心から尊敬しお慕いする、堀内宗心宗匠も、佐藤初女さんも、そしてダライラマ猊下御自身も、本当にそうだなと思います。
研究所職員としては、なんとなくお名前を出すのは憚られますのでふせますが、禅の老師方にも、大いにそういった部分を感じ取れます。
初女先生は、最後に、来場者一人一人と握手を交わされました。その握手一つにも、彼女の生き様が反映されており、“心をこめる”とは、目に見えるもの、わかるものだな……と思えたのでした。
89歳現役。私も、「死ぬまで何らかの現役でいなくてはいけないな。人様の役に立てるような事をしていたい……」と強く思った一日でした。