『笑う禅僧―「公案」と悟り』 安永祖堂著


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『笑う禅僧―「公案」と悟り』安永祖堂著
「最近、気が晴れないし、坐禅でもしてみようか」
「うちの息子、ぐうたらで根性なしやさかい、坐禅でもさせてみよか」
そんなとんでもないこと “やめておきなさい” とは司馬遼太郎さんの言である。司馬さんは、禅は危険な思想だと言う。

昔、マルクス主義が危険だと言われた時代がありましたが、(禅は)もっと根源的な意味で、人間として最も危険な、劇薬の部分を持っています。いいかげんな者が禅をやってはいけないと私は思っています。(本書98頁)

司馬遼太郎のこの言葉を、著者は、抑下の托上、つまり、この上ない褒め言葉だと言われる。

劇薬とは効き目の強い薬物であり、もっと効き目が強くなると毒薬になる。要するに、用いかたによっては薬にもなれば毒にもなる。司馬は「禅は効き目のある劇薬」という言い回しで、そのことを言いたかったのではないだろうか。

禅はどのように効き目のある劇薬か。
本書に取り上げられているのはそのことである。
世間で「禅問答のよう」と言われるチンプンカンプンな話、禅家でいう「公案」とはどんなものなのだろう。たとえば「趙州柏樹子」の章。

趙州、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来の意」。州云く、「庭前の柏樹子」。(趙州禅師は、僧が「初祖菩提達磨大師がわざわざインドからやってきた意図は何でしょう」と尋ねたので、「庭の柏の樹」と答えた。本書、128頁)

古来、この「祖師西来意」の問いに対する答えは、いろいろなヴァージョンがあって、百を越えるようだが、いずれの答えも脈絡がなく、取り付く島もない。問答を読んだ大多数の人は「わからん」と言うほかないのだ。しかし筆者によれば「そもそも理解しようというスタンスがまちがっている」ということのようだ。問答を傍観者として理解することなどできるはずがない、問答の当事者のひとりとして共鳴して初めてわかるのだという。問答の周波数と自分の周波数を一致させること、同調すること、チューニングがうまくいけば、問答を聞き取ることができる、ということのようだ。それゆえ、坐禅と公案は密接につながる。坐禅とは調えることだからだ。身体を調え、呼吸を調え、心を調える。

公案の解決は坐禅を離れてありえない。なぜなら、調えるというのは、じつはみずからの周波数を調えることなのだ。(中略)だからひとつの公案を解決したかったら、その公案のもつ周波数に自分が同調するしか解決方法はないのである。

著者の安永祖堂老師は花園大学の教授であり、禅文化研究所との繋がりも深い方なので、直接に何度もお声をお聞きしている。拝読していると、老師のお声が直(じか)に響いてくるようで、実にあたたかい「妙薬」であった。


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