立派な人


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「そんなところ(禅文化研究所)につとめておられたら、立派な人にずいぶんにお会いになるんでしょうねえ」と時々言われる。大抵の場合、揶揄である。発言者の真意は、「私は、そんなにアクセク修行もしてませんし、聖人でもないけれど、そこそこ気持ちよく、みんなともうまくやって生きてますよーー」というあたりにありそうだ。
若いころ、アシュラムで結構がんばって修行したという友人に、「禅の世界で突き抜けた人に会おうと思ったら、何処に行ったらいいの」と聞かれた。ある時期に「修行」を止めた友人の真意は、「どれだけ苦行を重ねても、所詮、人間は神にはなれない。だったら、そんなイビツな日々を送るより、そこそこ人生を楽しんで送ったほうがいいんじゃない」ということのようだ。因に彼女は西洋人である。
なるほど、十代のころに深い虚無と出会った私の親友は、いまなお坐禅三昧の生活のなかで、「真っ暗ですよ」と言う。ふむふむ。
糸井重里さんが書いていた。

人間が、どうしてもやってしまう基本的な悪いことについては、「必ずじぶんもやる」と思っていることが大事。ぼくは、近くの人には、そう言ってきました。
「私(わたし)」を、人間離れした位置において、他の「人間たち」のろくでもないことを指摘するのは、もうやめにできないものだろうか、と思うんです。

糸井さんの言葉を借りると、最初に掲げた2つの例は、「私(わたし)を、人間離れした位置において」、自己の苦しみと悪戦苦闘する他人をとやかく言うということにもなるのだろうか。ここで「人間離れした」とは、ミエやウソから全く解放された人のことのようだ。
私は上記の「真っ暗な」親友と一緒にいると、とても楽で明るい気分になる。なぜかなと考えてみる。多分、私が彼にまったく気を使わないでいられるからではないかな、と思う。「他者」と一緒にいると、大抵の場合、どんなに楽な人でも1ミリくらいは気を使う。なぜか。相手を傷つけないでおこうという、抑制力が働くからだと思う。多分、悟りを得た自由闊達の人には、こんな気遣いは生じないであろう。
では、どうして親友と一緒にいると気を使わないのか。私には、彼を傷つけることさえできない、という確信がどこからともなく涌いてくるからではないか。つまり、彼は私ごとき人間のアレコレに傷つくことなどないのだ。人が傷つくのは、ミエやウソをコケにされた時ではないか。「私の内なる悪が機能しない」。こんなにホッとすることがあるだろうか。だから「真っ暗な」親友は、私にとって「立派な人」なのだろう。その立派さが、彼の坐禅とつながるのかどうか私にはわからない。