私事ですが、「研究所に勤め、茶道をしているからには、“坐禅”をせねば!」と、大きな志を抱き、やる気だけはみなぎらせ、何ヶ所かのお寺に坐禅を組みに行ってみた事がありました。
ですが、昔バスケットボールをしていた時代に、何度も捻挫をした古傷が耐えられないほどに痛み出し、そうなってしまうと、“痛み”にしか意識は向かなくなり、結局早々に断念してしまいました。
ある方から言われて、呼吸の重要性に気付き、さらに色々と自身の問題が重なった時に、一度手を出しかけてやめていたヨガを、もう一度始めてみようと先生を探しました。そして、素晴らしい先生との出逢いによって、様々な“気付き”や“学び”が私に訪れるようになりました。
いくつもお話したい事はあるのですが、まず初心者でありながらも私が思うのは、普段全く意識もしていない身体の部分というのは意外に多くあるもので、「あぁ、ここも私の身体の一部だったのか…知らなかった。ごめんね」と思いながら、アーサナ(ヨガのポーズ)を実践すると、それは同時に、知らなかった自分に気付いたり、見えていなかった自分の心が見えてきたりする事に繋がっているのだな……という事です。
「“自分を知る”という事においては、禅も茶道もヨガも同じ事だな」と、私の中でしっかりと太く繋がっています。
以前お話を拝聴したリンポチェは、「私はチベット仏教を信仰なさいと言っているのではありません。御自身のdaruma(ダルマ=自然・natureと仰ってました)に合うものを探しなさいと言っているのです」と仰っていました。
またある日の講演会では、鈴木大拙先生の元秘書の岡村美穂子先生が、「自分の足に合った靴をお履きなさい」と仰っていました。
頑なに坐禅にこだわり、「こうしなければならない」と、自分に鎖を巻いたような時もありましたが、これでよかったのだな…と今は思っています。
皆様にも、それぞれ御自身のdarumaに合うものとの良き出逢いがありますように。
*ちなみに少し宣伝ですが、坐禅会に参加してみたいと思われる方は、弊所に事務局を置いております、臨済宗・黄檗宗の公式サイトに、坐禅会情報がございます。ご参考になさって下さい。