禅文化研究所長 西村惠信より皆様へ
今年もまた年の瀬を迎えました。過ぎ越し方を眺めれば、今年の出来ごとがすべてが夢のように遠く霞んでしまっています。歴史に再び繰り返すことのない「平成22年」というこの年の、365枚の日めくりを、それほどの感慨もなく破っていって、あと数枚。
忘年会と称し、みんなでわいわい騒いで忘れてしまおうというこの国の習慣。そして1年のしっかりした締めもそこそこに、もう書かなければならない来年の年賀状。
私たちが歳末から新年に掛けて繰り返す、このようなマンネリズム。「例年の如く」という社会的慣例のなかで、「今年」という年の二度とのない出来事の記憶が、簡単に薄らいでいくのは、なんとも「人生の上滑り」としか言いようがありません。
こうして、正月に始まって大晦日に終わる365日の繰返しは、そこに生きる人間存在の、2度と繰り返さない時間性を忘却させてしまうのです。
人生にも大自然と同様、春夏秋冬があります。しかし大自然のように繰り返すことのない、ただ一回きりの春夏秋冬です。人生には、また来年ということがないのです。
「年々歳々花相い似たり、歳々年々人同じからず」ということは、誰でも知っているでしょう。しかしこれが実感として身に染みる人は、少ないのではないでしょうか。
77歳の私じしん、もう人生の深い秋の中を歩いています。とても来世のための「年賀状」を書くような暇はありません。むしろ残り少ない時間の生き方だけが関心事になった、そう思って毎日を生きています。
歳の終わりに、私の好きな村野四郎の「鹿」を写して、研究所からのお歳暮とさせていただくことを、どうかお許しください。
鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして