禅語に「眉鬚堕落(びしゅだらく)」というものがある。
眉やひげが脱け落ちてしまう、と言う意味であるが、言語を弄してみだりに仏法を説くと、その罪で眉やひげが脱け落ちてしまう、とのことである。
弟子のためにあえて言葉で仏法を説く場合は「不惜眉毛(ふしゃくびもう)」という。
初めてこの言葉に接した時、ふと思ったのは、眉はともかく、そんなに多くの禅僧がひげ(鬚はあごひげ)を伸ばしていたのだろうか、という疑問である。
普段からひげを剃っている人にとっては、ひげが抜けたとしても何の不都合もないだろう。
出家者に薄毛(いわゆるハゲ)の悩みがないように。
出家者は本来、髪はもちろん、ひげもきれいに剃るのが戒律の定めである。
東南アジアでは眉も剃るという。
ところが、中国では宋代のころから髮やひげ、更には爪も伸びたままにしておく禅僧も多くなったようなのである。日本に伝わる中国禅僧の肖像画のいくつかにも、髮やひげが描かれている。
当時、禅僧と髮やひげとの間には、あまり違和は感じられていなかったようである。
そんな風習を道元は、仏祖の戒めに背くものとして厳しく非難している。
たしかに、爪を伸ばすのは、労働とは無縁な士大夫階級を象徴する風習であった。