茶の湯の稽古をしていながら、今頃読んでみました。
物語は、利休居士切腹の前日から始まり、何故切腹という最期に至ったかを、利休居士と周辺の人々との様々な出来事を綴り、遡ってゆく設定。
ありそうで無いようなこの設定に読者はひきこまれてゆきますし、美しい文体と表現力も手伝って、非常に読みやすい本です。が、読んでゆくと、色々な意味で少しくどさを感じました。
様々な“利休像”というのがあり、それは茶の湯を稽古する者一人一人違うかもしれませんし、歴史研究家や小説家などの間でも違ってくるでしょう。
自分の中で考える利休像というのは、誰にも侵されるものではありませんし、私は色んな方の書いた利休居士についての本を読んだり、自身が茶の湯の稽古をする中で、そこから様々を感じ取り、自分の中の利休像をかためてゆきたいと思います。
お茶の世界の事は色々と言われる所がありますし、「お茶なんていうものは習うものではない、自分流が一番」との声を耳にする事もあります。それは確かに正しいのですが、そのセリフの中に、茶道を習った事も無いのに、茶道会を批判する含みがあるならば少し疑問を感じます。こういう方にはよく遭遇します。
流派について、私の尊敬するある人が、「流派に入る事によってこそ、流祖の悟りが流れてくるのであって、自分の中にもひょっとすれば悟りというものが生まれる可能性がある」と言いました。それは、仏教や禅の世界においても言えるところで、このあたりについても、今後考えを深めてゆきたいところです。
『利休にたずねよ』山本兼一