今日は仏教の三仏会の一つ、降誕会(お釈迦様のお誕生日:花祭り)です。
ネパールに近いカピラヴァストゥという国の城主であったシュッドーダナを父とし、隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘のマーヤーを母として、現在のネパールのルンビニにて生まれました。ゴータマ・シッダールタと名づけられた、後のお釈迦様は、生まれるとすぐに七歩歩き、右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊(天上にも天下にも、唯だ我れ独り尊し」と言ったと伝えられます。
これをよく「世界中で私が一番偉いのだ」と捉えて、お釈迦さんともあろう人が、なぜそんな横柄で偉そうなことを?と思う方もおられるようです。また、もちろん生まれてすぐに歩くことなど尋常ではできるはずもなく、赤ん坊がそんな言葉を言うことももちろんできそうにもありませんが、それは偉人によくある、弟子たちによって後に作られた伝説として捉えればいいでしょう。
しかし、そうまでしてお釈迦様が生まれてすぐに言われたとするほどの、この言葉の意味は取り違えないようにしたいものです。
世の中で、この自己こそが、かけがえのない存在であり、かけがえのない命(いのち)である、ということです。そしてここで言う「我」は釈尊自身であり、あなたや私自身でもあります。生きとし生けるものすべての「それぞれの命」です。
今、東北地方はこの度の地震と津波による震災で相当な被害をうけ、そこに暮らしてきた人びとの生活はままならないことになっています。原発の放射能漏れにさらされている福島の人たちも同じです。
またその中で、自分の命をも顧みず、放射能漏れを止めようと前線で懸命に働いてくれている人たちがおられます。私たちは彼らに託すより仕方がありません。
しかし、自らのかけがえのない命と引き換えに、私たちの命、植物の命、魚の命が守られるように働いてくださっているのです。「有り難う」の言葉しかありません。
大本山妙心寺の生活信条の二番目に、「人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう」とあります。「天上天下唯我独尊」を言い改めたものと言えるでしょう。
本来は、まず自分の生活を大切にしてはじめて、他人の生活も大切にできるのだと思いますが、今まさに福島原発で放射能にさらされながら作業をしている人たちは、そうではないのです。
まるで第二次世界大戦において、お国のためにと散っていった人びとと同じではないかとさえ思います。
こういうことになってしまうような原子力発電に頼る生活環境を作ってきてしまったことを、我々一人ひとりの責任と感じて、一日も早く正常に「自他の生活を大切に」できる日が来ることを願ってやみません。
「天上天下唯我独尊」とみんなが言える日が来ることを祈って、甘茶を小さなお釈迦様の像に潅いだのでした。