佐川美術館には度々足を運ぶものの、予約が必要な為先延ばしになっていた、樂吉左衛門館の茶室見学。
私の拙い言葉では表現できないような、生きている茶室でした。五感を研ぎ澄まし様々を感じる事でとても不思議な感覚に浸れる茶室。まるで茶室から接化を受けているかのようで……。案内してくださった美術館の方も、「ここへ来ますとスッとしますでしょう。何かが落ちるような……」と。
そこで思い出したのが、先日開催した私的な勉強会で読みました本、『いのちのシャワー』(くだかけ社/松田高志著)の一文。
和田重正先生の『山にいて若者と共に――人生科』の中に、「人間というものは外側はそういうふう(自己中心的)にできているから、しょうがないけれど、その外側がだんだん稀薄になっていくのが、人間的成長ということで、人間の成長はそういう所に表れて来る」とありますが、ここで外側とか、それがだんだん稀薄になっていくのが成長であるという言い方は、大変印象的です。
外側を稀薄にしてゆく為に、私達は社会で様々な経験を積んだりするのでしょうが、私の場合は特に外側が強固で厚い為、茶や禅やヨガや…などと、稀薄にする為にせっせと色々なものに手を出しているのでしょう。
更に、この日茶室を訪れたように、芸術や文化に触れる事は、それがそのまま外側を稀薄にしていってくれるような気がして、美術館の方の「何かが落ちるような…」が妙に納得できたのでした。
また、私の友人が、「でも、その稀薄にしてゆく過程も楽しいもんやん」と。確かに茶も禅もヨガも厳しさがありながらも、楽しいです。苦行ではありません。
まだ短い人生ですが、大変辛かった経験も、今となっては糧となっています。
色々を考えると、やはり人生とは、和田重正先生が仰ったように「いのちの世界では、楽しみの中にも、苦しみの中にも、悦びがある」これにつきるのだなと思う今日この頃です。大学生の頃にこの言葉を知りましたが、まだわかったようなわからなかったようなあの頃の自分を思い出しました。