昨日、東日本の大震災から2ヶ月が経過しました。
現地の人たちは、それぞれ、色々な思いがあることでしょう。
昨日、ちょうど、福島在住で宮司をしている友人に連絡をとってみて話をしました。
彼の神社は海や原発からも遠く、大きな被害は無かったようで、風評被害に苦しむくらいで、生活は安定しているから大丈夫だということでした。
風評被害というから、野菜などのことかと思い聞いてみたところ、そうではないとのこと。
何よりも彼は、「福島」や「いわき」ナンバーの車に対するバッシングがあまりにもひどいと言うのです。実際に、近県に買い物にいった「福島」ナンバーの車が、ボディをボコボコに凹まされて帰ってきたのを見たそうです。
震災後、主に外国メディアでは、日本人はこの震災の被害にあっても、素晴らしい秩序と人間性をもって支えあって生きていることに感動したと、美談が多く報告されました。実際そういう面も多々有ると思います。
しかし、実はそればかりではないのです。福島県から引っ越してきた子供達が、少なからず差別を受けているという話は新聞で読んだりもし心を痛めましたが、我々が思っているよりはるかに深刻な様子です。
驚きました。いったい、それをやっている人はどういう人間なんだろう。日本人の美徳を称賛されているのに、実際にはこんなことが平然と起きていて恥ずかしいことです。
こんなことはあってはならないと思います。福島原発の事故は、よく言われるように、半分は人災だとも言えるでしょう。そもそも私たち人間が、手におえない原子力に手を出してしまい起してしまったことによる過ちといえます。
その事故の被害だけでも福島の人たちは大変な状態なのに、そこに住まう人たち、あるいはそこに住むことさえかなわなくなってしまっている人たちを、この上、さらに悲しませるようなことを決してやってはいけません。
我が国、あるいは世界の歴史においても、いわれのない差別がずっと問題になってきました。今でもその差別に苦しんでいる人も少なくありません。
どうして私たちは、人を差別してしまうのか、今一度、本来の心に立ち返って考えてみませんか。
人のふり見てわがふり治せ。福島の人に対しての差別をする人にはNO!を。そして、自分に同じような差別心は存在しないかを考えてみようではないですか。
少し仏教的に言えば、おのれの中にある、差別をするような「妄心」と表裏にある汚れなき「真心」=「仏性(ぶっしょう)」を見極めること、それが悟りだと思います。
どうか、被災地の人たちに、一日も早く安穏とした日々がおとずれますように。