この秋、sさんの案内で、比叡山登山を敢行した。(sさんは、最澄に心酔し、最澄を心の糧として毎日を生きているという、とってもおちゃめな女のコである)今回は、比叡山の表参道ともいえる、近江坂本の日吉大社脇の登山口から登り始める。
途中、延暦寺第3代の天台座主である円仁(慈覚大師)の廟所に参拝する。小堂のところで右に折れ、山道を通り抜けた突き当たりの峰の上に、「慈覚大師」と刻まれた卵塔が厳然と立っていた。墓石は一見して新しいものと分かるが、それもそのはず、これは大正十二年に建立されたものであった。
辺りは木々の間を風が蕭々と吹き抜ける静寂の別天地。最澄の廟所である浄土院も、そこから仰ぎ見ることができる。琵琶湖も眺めも美しい。
円仁は遷化の時、山上に廟堂を建てるのは宗祖伝教大師のみにすべきであり、自らの墓も一本の木を植えて印にすれば足りる、と遺言した。
ところが、円仁の墓所については、不思議な伝承が付随している。
鎌倉時代の日蓮は、手紙の中で、天台宗を密教化した円仁を非難して次のように書いている。
「世間に云、御首は出羽国立石寺に有云云。いかにも此事は頭と身とは別の所に有か」
円仁の胴体と首は、別々の所に葬られているというのだ。
たしかに、山形県の立石寺には、慈覚大師の入定窟と呼ばれる岩窟があり、円仁が葬られているとの伝承があった。
昭和23年に立石寺の岩窟を調査したところ、金箔を押した木棺と五体分の遺骨が発見され、熟年以上の男性の非火葬骨が円仁のものであろうと推測された。ところが該当する頭骨はなく、代りに木彫の頭部が安置されていた。これが何を意味するのかついて、研究者の間でも見解は定まっていない。
慈覚大師の「首」をめぐっては、いまだに解けぬミステリーがある。