日々の生活で出会った素晴らしい様々な“技”を、季刊『禅文化』にてご紹介しています。
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季刊『禅文化』221号より
“技を訪う―土樂窯・福森雅武” 川辺紀子(禅文化研究所所員)
山と田畑に囲まれた、伊賀・丸柱の土樂窯
白洲正子さんの著書『日本のたくみ』(新潮文庫)で、伊賀の土樂窯七代目・福森雅武氏を知ってからもう十年以上になるだろうか。そこここに神が宿るような、日本の原風景の広がる先祖伝来の地に住まい、日常楽しむ器をつくり、自らそれに近隣で採れた花を生け、山海の珍味を料理し、盛りつける。日々の営みを垣間見るに、その姿はまるで自然そのもの、自然と一体で、「この人はいったいどういう人なのだろう」と私は強い関心を抱いたのであった。
さっそく著書『土樂花樂』(文化出版局)を求めた。自作の器や、好きで収集された骨董に、我々が“雑草”と呼ぶ草花が生けられ、凛とした佇まいを見せている。しかも、流派の花とは違い、大らかで縛りがない。まだ茶道の稽古を始めたばかりで型を習っていた私は衝撃を受けた。この人の花を真似ることなど到底できない、ということだけは悲しいほどわかっていたが、「何か得たい」と、ことあるごとに頁をめくり心の花の師匠としてきた。また、実家では土樂窯の土鍋や器を少しばかりではあるが愛用し、祖母は亡くなるまで、兄と私が贈った雅武氏の湯呑みを愛用していた。繊細ながらもたっぷりしたその湯呑みを両手で大事そうに持ち、茶をすする祖母の姿を今も思い出す。いつも私の心を豊かにしてくれた、おおげさでも何でもなく、私にとってはさながら“聖地”のような伊賀の土樂窯であった。
そんな土樂窯の八代目を継ぐ福森家の四女道歩さんと、私の京都の友人・呉服メーカー“貴久樹”の糸川千尋さんが十年来の知己であり、いつの間にか私もお仲間に入れていただくようになった。二人のすすめにより急浮上した福森雅武氏の取材は、その日が来るまではどうしても信じられず、夢心地ながら、聖地訪問に私はいささかナーバスになるほどだった。
だが、そんな緊張もどこへやら、当日は雅武氏が自らいろり端で土鍋料理をふるまってくださり、道歩さん、糸川さんと、大いに食べ、呑み、笑う、まさに福森流の歓待を受けながらの取材となったのである。
「お話を聞いても、いつも魔法をかけられたようになってしまって、わからないままに終わってしまう。先生が如何にして先生になられたのかを知りたい」とは糸川さんの言で、どのようにしてこの福森雅武という人物ができあがったのかを知ろうとするのだが、わからない。「この頃になってようやく、今までわからなかったことがちらっとわかってくる。何かと言ったら、死ぬ準備だということやね」などと仰り、掴めたと思っても手中にはない影を、必死に追い求めるように、生い立ちから現在までの様々を伺った。
福森氏が自ら意匠を考え、多くの人をもてなしてきたいろりの間
【幼少期の「死」との遭遇と父の残像】
一番最初の記憶は、どんなに偉い人が来ていてもお父さんの膝の上にいたこと。学校創立以来の優秀な生徒と言われた長兄が戦死し、二人の兄も皆幼くして他界。のちには歳の離れたお姉さんも三十八歳で亡くなっている。道歩さんは、「女性よりも女性らしいところがあるような繊細な父が、幼少期に次々と兄を失うという体験をしたことが、彼の人生に大きな影響を与えた」という。その体躯に見合った、腹の底から発せられる大きく柔らかな声や始終笑顔のゆったりとした風貌からは想像もできないのだが、白洲氏の『日本のたくみ』に、「(黒田)乾吉さんがはじめて会った時は、痩せ細って、眦が耳まで裂けているような鋭い感じの青年だったという」とあるのを、その後のご苦労を重ねて思うと、なるほどと合点がいく。
“広沢虎造(浪曲)とジャズが一緒になったような人”であった福森さんのお父さん(主に茶器を作陶)は、三重県の津に駐屯していたアメリカ軍の幹部を家でもてなし、年に何度かはパーティーを開いていたという。当時としては珍しく、家にチーズやバターが山ほどあり、進駐軍が持参した電蓄にジャズのレコードがかけられ、山里深い伊賀の地にありながら、当時最新のテレビや洗濯機までもが揃っていた。学校へは革のランドセルに革靴といういでたちであったため、良くも悪くも目立ちすぎていじめられたという。さらに、豪快だったお父さんは、城下町上野が近いことから来客時には芸者を上げ、まだ幼い福森さんは手の空いた芸者にあやされることもあったとか。訪れる客人を挙げれば切りがなく、柳宗悦、濱田庄司、加藤唐九郎、川喜田半泥子など錚々たるメンバーで、いずれもその時代をリードした人ばかりであった。「意識のないところの学びが一番の学び」と仰るところからしても、幼少期のこのような交わりからの熏習は計り知れない。
【父の死】
幼い頃から土に親しみ、小学生の頃には既に轆轤をまわし、六年生でそこそこのものを作っていたという少年は、父の勧めで信楽にある陶芸専門の高校に通い、生徒でありながら轆轤の先生役まで務めた。しかし、「とにかく家と関わりたくない、いつかはここを飛び出したい」という思いも強く、バレーボールの強化選手に選ばれて実業団の合宿に参加し、選手になるのも悪くないと、汗水流した。そんな十六歳に、突然、父の死というあまりに辛い出来事が襲いかかった。波が引くようにいなくなる腕の良い職人たち、残った職人と家族のその日の生きる糧を考える日々。詰め襟姿で掛け取りに行き、「陶器で飯を食う」ということの現実を知った。
「世の中が真っ暗になったね。まあ生涯で一番ショックな出来事ではあったけれども、今考えれば、幸運だったんでしょうな。今の若者は、自分が次に左右どちらへゆこう、何か自分でもわからないままにやってみよう、というようなところが少なくなっている。安全装置がついていてね。芸大出たのなんかでも皆、外の概念で固まっているから発展しないわけ。中味を教わらずに外ばかりの形を教えられてきている。私の時代なんかは、達磨ストーブを囲んで酒を酌み交わして先生たちと夜通し話したもんです」。
歳の離れたお姉さんは、娘時代から当時では珍しくヴェスパ(イタリアのスクーター)を乗りこなすような人で、生け花の先生もしていた。山に分け入って花材を探す姉の後を、幼い福森さんも付いてまわったという。結婚して家を出ていたそのお姉さんとご主人が土樂窯に戻って来られ、福森氏が高校卒業後京都の工芸研究所へ行き、二十五歳で土樂窯を継ぐことになるまで面倒を見てくれた。
“眦が耳まで裂けているような鋭い感じの青年”の面影はもはや無い、現在の福森氏
【京都遊行時代】
「今日一日、今というのが大切だから、誰といつ、どこで、どんな縁で巡り会ったかなんて、もうすっかり忘れてしまいましたわ」。
心が豊かに広くなってゆくその道程こそが“遊行”であると福森氏は言うが、京都での遊行時代には寝る間も惜しんで、その道の一流と呼ばれる人たちとの交流に明け暮れた。京都時代のこの交友関係が福森氏を福森氏たらしめているのではないかと勝手に想像していたが、京都に出てくる以前から、彼の醸し出す“人を魅了する芳香”は完璧に具わっていたのかもしれない。「男にもてて仕方がなかった」らしく、ある時などは大先生を四十分ほど待たせてしまって、祇園のど真ん中で土下座して謝ったこともあった。鼓方の小寺金七氏宅に下宿していたこともあり、室町時代の能面を手に取り眺め、能楽鑑賞にもよく出かけた。柳原白蓮の子息・北小路功光氏と訪ねた修学院離宮では、百姓が稲刈りをし、煙があがる風景に、「後水尾さんはこれを楽しんだのだなぁ」と思った。修学院離宮の段々畑にしても、桂離宮の瓜畑にしても、「いかに楽しんだのか」というところに心を配るのが、我々のなすべきことであるという。賢しらに理屈ばかりこねて色々な情報を得ようとする私に、「いいから離宮でも古墳でもいっぱい見てきなさい。いっぱい見たら、もっともっと色々が面白くなるよ。尋ねてみなさい」と仰る。
光風会の画家・山田新一氏の元へ趣き、当時芸大を受ける学生のデッサンの指導までしていたという。石膏デッサンのみならず、クロッキーの技法なども学び、一時は絵描きに憧れた。「憧れたらね、やっぱりたいしたことないんだわ。憧れなんていうのはね、小学生が恋するようなもんやからね」。
工芸研究所は大学出ばかり。様々な人との交流の場では、プラトンから小林秀雄、西田幾多郎などの東西の多岐にわたる書物が話題に上り、氏が未だに大好きだというゴーゴリの『死せる魂』との出会いもその頃だった。なんとなく昔から気になっていた“禅”に関する書物を手にしたのもごく自然なことだった。「坐ったら、何かあるかなーと思うじゃないですか、坐禅て一体何だろうと。何でもやってみたいじゃない」。交流のあった大徳寺黄梅院の先住、宮西玄性師は、「好きに来て好きに坐れ」と仰り、ひとり出かけて行っては坐っていたという。
「こないだは久々に坐禅やって、よかったね。昔は欲があるからね、色んなことが心に浮かぶわけだけど、今は身をふっと投げ出せて、時々鳥肌が立つ。これが何とも嬉しくてね。何か宇宙に放り出されたような。若い頃にはなかった感覚やね」。
自作の水盤に“ふきのとう”と“酸葉(スイバ)”を生けて
【土樂を嗣ぐ】
二十五歳で七代目を継ぐこととなり、宮西師が、「出世したら箱書代をもらうが、貧乏人からは取らん」と、自ら箱書きを買って出てくれた。その後、裏千家の秘蔵っ子とまで呼ばれるようになり、福森氏が作る茶器を求めて多くの人が彼の元を尋ねるようになったが、そんな毎日が嫌になり、ぱたりと茶器の作陶をやめて、土鍋を始めとする日常使いの器を作るようになった。当時の茶器を見ると、「よくこんなませたもん作ってたな、うますぎる」と思う。
既にこの当時から、「あそこへ行ったらうまいもんが食える」と、誘いが誘いを呼び、里見弴氏、立花大亀老師、白洲正子さんなどが足繁く通ってくるようになる。器に始まり、しつらえの全てにおいて、気持ちに沿わないものは何一つ置きたくない。先祖の物も使わない。自らが作ったものと買った骨董を用いて、自ら花を生け、自らが作った土鍋で料理をし、毎回真剣勝負で客人をもてなした。
小学校高学年になった頃には、父親と同じことをやったのではかっこよくないと思っていた。その思いが沸点に達し、近所の年寄りからバチが当たると言われても、父の丹精の庭も、家も、全てを一旦壊し、自らの好みで一から作り直した。
「勇気がいるんですよそりゃあ。エネルギーがなけりゃそんなことできないからね。でも、幼い頃から駄目と言われるようなことを全てやらせてもらったからね。それがいいのかもしれんね。私はなんせ初代なんです。そしてこの人(道歩)も初代なんです。何かを継ぐとかじゃなくて、自分自身で発見をするということ。発見がなかったら人間生きていけないから。これは、どんな立場の、誰にでも言えることです」。
福森氏のお母さんは、「あなたのお好きになさってください」とだけ言い、他には何も言われなかったという。白洲正子さんが「私の先生みたいな人」と言ったお母さんである。客人を迎えても、私はこれしかできませんと、食材を穫りに鍬をかついで畑へゆく。福森氏が父と慕った白洲次郎氏は、「おい、よく見ておけ。無言の教えだ」とも言った。
そのお母さんが、度々職人たちに頭を下げることがあったという。京都の遊行から帰ってきた青年が、父親ほどの年齢の差がある職人たちに、半ば無理と思われるような指示を出し、度々職人の反発を買ったからである。轆轤で楕円形のものを曳けと言えばできない職人もいる。「轆轤ではこういうものしか曳けない」という固定観念に囚われていれば、できるものもできない。できないのは、技術的な問題や本人の資質もあるのだが、頭が固いのだという。福森氏には、何につけても、とらわれや枠といったもの、境界線がないようだ。
しかし、技という面から言えば、「先生は、もう早くから技術的には研鑚すべきものは何もなかったから、あとはどう心を整えるかだけだった(糸川)」、「どんなにできる職人よりもうちの父はやれる、土の方が言うことをきく(道歩)」というように、極めて卓越していた氏だが、こうも言われる。
「だけど、職人ていうのはね、今から思えばこういう人たちがいるから一つの物ができるっていうのがあるからね。よってたかって一つの物ができるっていうのはね、一人の作家の物よりも、ものすごく力が強い。一人の者がいくら名人として一つの物を作ったって大したことはないんだよ」。
【天台の行・得度】
福森さんが人生の師と仰ぐ人に、今は亡き比叡山覚性律庵の住職、大阿闍梨・光永澄道師がおられる。二十代後半から度々訪れていたが、年に一度の宇賀神浴酒供行には何年か通い続けた。人びとの願い事を一年中聞いている宇賀神(白蛇の胴体に老翁の頭部を持つ)の垢を落とすため、日に三度お経をあげながらお酒で宇賀神を清めるのだ。中でも厳しいのは、その行の前から始まる五穀塩断ちだという。絶食の方が楽だと思うくらいに、塩気のないものを食べるのは拷問のようらしい。三日辛抱して越えられたら、身心の感覚も極限まで敏感になるのか、お茶の味さえもうとましく思うようになる。
三十歳の頃の三千仏礼拝行では、朝三時頃から夕方までひたすら仏の名を大きな声で唱え、五体投地を繰り返した。そのうちに服が破れてできた傷が化膿し、自らが異臭を放つようになる。自分の身が腐るというのは、こういうことか、という不思議な感慨があった。光永師に得度を勧められて執り行なわれた、不動尊を前にしての儀式では、鳥肌が立ち、異次元へ誘われるかのような心持ちであったという。
憧れの陶仏
福森氏の作品の中で、私がとりわけ惹きつけられるものの一つに、陶仏がある。光永師の元にいた時に近くで工事があり、そこの土を見て惚れたのだそうだ。後で調べたら七世紀ぐらいの須恵器の窯元がすぐ近くにあったらしい。何十年も作陶していると、見たら作りたくなるような土があるのだという。仏像が大好きで、日本のみならず二十代半ばには敦煌へもでかけてゆくほどだったが、自身が仏を作ろうと思ったことはなかった。まさに、土が思わせたのである。光永師の心配にも臆することなく、覚性律庵近くに窯を作り、野焼きで仏さんを焼いた。
光永師の遷化に際しては全く悲しいとも思わず、涙一つ出なかったという。充分に心通わせたからである。
【禅】
糸川 「禅寺黄梅院の和尚様は好きに来て坐れと先生を育てて下さいました。和尚様は、誰でも良いと思われたのではなく、この人ならということだったのではないでしょうか」。
福森 「そりゃね、師から何かを引き出すのも我々なんです。立派な和尚がいっぱいいるわけだけれど、私に少しだけ与えてくれることがあるというところを、引き出すんです。我々の方の問題です。仏も殺し祖も殺し、という禅宗、これが私は好きでね。もうこれしかないんです。今、“お前”なんていうのは有るけれど無いのだ、というところを、即問われる。即答えられるかどうかでしょう。私はそれが禅宗の一番の元だと思っています。達磨が何を伝えたいのかというところを二十代の頃にやりましたが、禅宗の元っていうのは、何も無いというところで、何かを持つと怒られる、しかし持たなきゃまた怒られる。これが面白いところで、一つ越えるとそれがよくわかってきます。味にしても空気にしても独立はしていない、確かなものもない、ずーっと動いている。今が美味しかったら美味しいだけの話。その“今”が大事。何に関しても、今、自分自身で感じるかどうかが全てです」。
【物をつくるということ】
福森 「物をつくるということ、それは真っ白から始まり、いつも不安で、積み重ねがないということです。積み重ねではなく、瞬間であって、昨日良かったから、今日はそれを真似て、それを元にしてやろうと思ったら絶対に失敗する。評判の良かった形を真似したら、それは自分で作ったものを真似たのでも二番煎じということになる。そうなれば、本人も周りも納得はいかない。元というのは、何も無い。何も無いというところをわからんと、次に進めないのよ。例えば王羲之の書があるとする。半紙を上に載せて書くと、近いものにはなるけれど、なんだか変なものになってしまう。直感でものを感じることができるということ、これが生きる道やな。生きる道というのは自分自身で何かをみつけること。勉強したからといってどうってことはない」。
現代では、業者から土を仕入れる陶芸家も多いようだが、土樂窯では一番基本の土、“水簸”と呼ばれる、土の不純物を取り除いて精製し、栄養分を多く含んだ粘土を作る仕事から始める。一番単純な作業で、実に面白い、これをやって初めて粘土の尊さがわかったという福森氏は、現在も弟子たちと共にこの方法で自分たちが使う土を作るところから仕事を始める。ごく当たり前のこういった作業も、日々、真っ白なところから始まっているのだろう。
いろりの間の床に飾られた岸野承作“雲水”と平安時代の鈴
【生と死】
福森 「死に近づいているというのはいいねえ。なんとなく自分で物がわかってきたなと思う時、これは死に近づいていってるんだなと思うね。今までわからなかったことがちらっとわかってくるということ。例えばこれ(床に掛かった江月宗玩・澤庵宗彭賛、松花堂昭乗画の「四睡図」)を買うのもそう。心底良いと思ったものを買わざるを得なくなるということ。この場合、私の命と一緒のところをみつけたのだという感覚でね。この江月さんが書いた「一睡堆中」、みんな塊になって寝てしまっている、人も虎も一緒になってる、これやね。自分の人生そのものの本心を書いているわけ。これはね、良い悪いじゃないんです。私は忘れるということが一番大事なことだと思っています。忘れんと入ってこない。だからこういう軸が手に入るということも、何かを手放しているということやね」。
川辺 「伊賀のこの地の自然から学ぶところはやはり大きいですか」。
福森 「そりゃあ大きいね。自然、人、物、全てから学ぶ。好きな骨董を買うとする。それに花を生けようと思ったら、合う花ってなんだろうと思うでしょう。器に教えてもらうんやね。器に負けないように、でも前にも出ないようにとか、まあそういいながらも実際そんな小さいことは考えてないんやけれども、ぴったりとは一体何だという、そこやね」。
川辺 「ぴったりというのは一体何でしょう」。
福森 「ぴったりというのはね、自分と自然、己と他との境界がなくなるのよ。これがぴったりということ。車を運転していても、道歩なんかは山菜やら何やら、よく見つける。何で見えるのかと不思議がられるけれど、そういう風に、気持ちの方がなっていたら見える。目がいい悪いじゃない。例えばいろりで料理していても、炭に火がついたら、綺麗だなって皆思うわけよ。赤々としてね。だけどほんとに綺麗と思う人は少ないのよ。心を動かすほど綺麗と思う人がほとんどおらないんだな。私なんかはもうそこらへん歩いて、石が転がっていてもいいなと感動するんや。この歳になってくると何でも感動してな、ほろほろする時があるしな。今は何でもないことに涙が流れることもあるし、何でこんな綺麗なものが綺麗と思えないのやろうと不思議に思ってしまう。当たり前のことが綺麗と思えないということは、一体どこで感動するのやろうと思うね。皆が綺麗やなと言うから綺麗やなと思う、という程度やったら、物は作られへん。今日でも感激したのは、京都からの帰り道、逢坂山の山桜が満開で、新芽が芽吹いて、こんな綺麗な時があるのかと感激しながら運転してた。すごい嬉しかったんやで」。
空っぽの福森さんの中に、どーんと山桜が咲き、新緑があふれたのだろうか。
土樂さんの隣にあるお稲荷さん
白洲さんは、かつて自分のための骨壼を福森さんに頼んでおられた。「市販の骨壼は、味もそっけもなくて、あんな冷たいものに入る気はしない」からであった。それが届いたときの喜びを、「やっと望みが叶ったので私はうれしかった。……自分の友達が造ってくれた壼の中に入るほど倖せなことはなく、これ以上のたのしみはない」と書いておられる(『名人は危うきに遊ぶ』新潮文庫)。
白洲さんが後生を托したのは、おそらく、福森さんが造られた、真っ白な骨壼だったのだろう。福森さんの言われるぴったりとは、正しくこのことなのだなと思った。
伊賀 土樂窯
〒518-1325
三重県伊賀市丸柱1043
℡ 0595-44-1012