古代史史料としての『元亨釈書』


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『元亨釈書』は鎌倉時代の僧伝・仏教史として著名であり、その史料的価値はいまさら論ずるまでもない。
しかし古代史に関する史料としては、その成立時期の遅さもあり、注目される部分は少ない。他に見えない独自記事があったとしても、その評価は芳しくない。例えば、巻一、道昭伝における道昭の隆化寺慧満への参禅、あるいは巻二十一、持統三年条(六八九)に見える、明聡らによる新羅使者へのとりなしの記事などは、創作記事と考えてよいだろう。
しかし、中には検討に値すると思われる記事もある。『釈書』二十三、資治表四、高野皇帝(称徳天皇)五年条(神護景雲三年/七六九)に、「封戸(ふこ)を土師寺(はじでら)に納む」とある。この記事は現存『続日本紀』『扶桑略記』には見えない独自のものである。また土師寺についても大阪府藤井寺市の道明寺(土師寺はその古名)だと思われるが明証がなく、江戸時代以来二・三の説があった。
ところが『新抄格勅符抄』寺封部に「□師寺。四十戸。神護景雲三年施。信乃二十戸、遠江二十戸」(『新訂増補国史大系』による)とあり、欠字であった「□師寺」が先の『釈書』の記事に見える「土師寺」に当たると思われるのである。神護景雲三年、土師寺への封戸四十戸の施入は史実と考えてよいであろう。
『続日本紀』によれば、同三年十月、称徳天皇は河内国由義宮(ゆげのみや)を西宮と称し、河内国を廃止して特別行政組織の河内職を置いたという。由義宮とは、天皇が、その寵愛する道鏡の出身地に造営した宮で、現在の八尾市付近にあったと考えられている。
以上を考えあわせると、やはり「土師寺」は河内の道明寺を指すのであり、封戸施入も由義宮造営に関連する措置であった可能性が出てくる。謎の多い由義宮造営に関する一史料となるかも知れない。
『釈書』の本記事は、『扶桑略記』に拠ったものである可能性が高い。現存『略記』の当該巻は抄録本であるが、完本には本記事があり、『釈書』は抄録される前の『略記』に拠ったのではあるまいか。このような例はまだまだあるだろう。
参考文献:藤田琢司編著『訓読 元亨釈書』(禅文化研究所刊)下巻372頁。