ご存じの通り、清水寺の森清範貫主が揮毫された今年2011年の漢字は「絆」でした。東日本大震災で改めて家族や友達、そして社会との繋がりを再認識されたためだと思います。
日本はそもそも絆を大切にしてきた国家、国民性だったと思います。太い神社のしめ縄は厄除けの結界の意味ですが、本来、日本人はこんな太い絆で結ばれていたのだろうなと思います。
しかし、太平洋戦争に敗戦後、アメリカナイズドされ、高度経済成長期をへて、その絆がどんどん断ち切られてきたのではなかったでしょうか。襖や障子で仕切られているだけだった日本建築の部屋は鍵のかかるドアとなり、薄い壁の長屋は厚いコンクリートのマンションとなって、「隣は何をしているかも興味なし」という状態になってきたのは言うまでもありません。いまさら「絆」と言われても、観念だけで、何かとても薄っぺらく思えてしまうのは私だけでしょうか。
なぜなら、とくに都会では孤独死してお葬式もままならない方や、家族がいても生前にご縁のあった人さえも呼ばないで行なう家族葬が多いのですから。「絆」を大事に感じるのであれば、面倒でも、ご縁のあった人の人生の最後には野辺送りに立つというのが本当なのではないでしょうか。また遺族はそういう人たちをお呼びするのが「絆の証」なのではないでしょうか。
「絆」に気付いたのであれば、こういったことも見直して考えてもらいたいと思うのです。なにしろ仏教の教えの基本は「縁」なのですから。
私の自坊のような少し田舎では、今も檀家さんの法事に多くの親戚やご近所をよばれていることが多いです。「絆」ということを強く感じます。田舎だからまだ辛うじてこういったことが続いているのだとは思います。しかし、既に家族だけで法事をされているところもあり、手を抜けば、すぐに都会と同じように、意味も考えずにどんどん省略されていくことは必定でしょう。
そうならないようにしていきたいものです。
-訂正-
「隣は何をする人ぞ」というところがありました。これは、松尾芭蕉の俳句「秋深き隣は何をする人ぞ」の意味からすると全く反対の意味だというご指摘を読者の方から頂きました。確かにそのとおりです。
ただ、私は芭蕉の句というよりは、頭の中で慣用句としてふと出てきた言葉でしたが、誤りに受け取られることの方が多いように思われますので、改めさせていただきました。お詫び申し上げます。