師匠の点前


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茶の湯の稽古を始めてはや12年。
潔癖症で人一倍変にこだわりのある私が、茶の湯の世界を大好きになり続けて来られたのも、ひたすらに学び続け、茶の道に対して真摯にあり続ける師匠のおかげです。
先日のお稽古で、涙が出るほどに感動し、心うち震えた師匠の姿。
稽古中の弟子が、茶杓を清める所作に移ったところ、
「宗心宗匠(表千家・堀内宗心宗匠)はね、このように茶杓を清められるわよ」と手本を見せて下さった、その所作。
もうそれは、宗心宗匠が乗り移ったか、そこにいらっしゃるかのようなのでした。
まさに伝統とは、道とは、このように受け継がれてゆくのだなと改めて思ったわけなのです。
齢八十を超えた師匠。娘時代から続けてきた茶の湯の稽古なわけで、身体にしみついてしまった点前は、そうそうすぐに変える事ができない事は、たった12年しかお稽古していない私でもよくよくわかります。
ですが、いつもいつも宗匠のお稽古で新しい事を学んでこられると、すぐにそれを実践し、今までの点前と違っていても、「この間の会で、宗匠がこのように仰ったから……」と、とても柔軟に対応されます。
稽古を続ければ続けるほど、素直にならなくてはいけないと思います。
長年稽古を続けてゆくうちに、どうしても自身の癖が顔をのぞかせます。長くなればなるほど、師匠に注意されても、自分を律して素直に従う事ができにくくなってゆくように思います。我の強い私はことさらです。
そんな自分を捨て去って、ひたすら素直に、全身で師匠の教えを受け取りたいと願う今日この頃。
『歩々清風』(堀内宗心著・禅文化研究所刊)の大好きな文章を思い出します。茶の湯の稽古をされている方には是非手に取っていただきたい本です。

自分で点前をしてみて感じることは、お茶の点前の中に、自分で自分を律するという修練の含まれているということであります。
 自分の手足の動き、手足の位置など、一見たいしたことではないはずであります。しかし、これを自分で意識する間に、自分に対する見方が変わってくるのであります。これは禅宗の修行のなかでもまた大切なことであります。坐禅は、生理的に精神的体調を調えるうえに非常に有効な手段でありますが、お茶の点前は、自分の身体の隅々までを意識して制御している間に、ひょっとして、自己解脱につながる契機ともなるのであります。(本文「お茶を教えるということ」より)

そして、『歩々清風』のまえがき(臨済僧堂師家・阿部浩三老師)。少し長いのですが、是非読んでいただきたい名文です。

 さて、皆さんは千利休さんによって完成されたお茶の世界が全てだと思っておられませんか。しかし本当は、自分の先生方がどのように生きて、どのように活躍されたかという歴史もふまえながら伝統の継承を行なわなければならないのではないでしょうか。師として崇める方の、あるいは師であると胸に抱く方のお名前と歴史をしっかりいただかなければ、私たちは継承できないだろうと思うのです。お慕い申し上げる方の全てを盗みとるのだ、その方から全てを習うのだという思いが必要なのではないでしょうか。
 文化の継承というのは、棚からぼたもちのようには受け継ぐことはできません。限りない努力をして、肌から感じ取っていきながら身につけていくものだと思われます。そういう努力が報われて、やがてだんだんと汗を流し歯を食いしばるような努力が失われていって、漸く自分が開放された時に自然に招かれていくのです。
 私たちは“受け継ぐ”とか“文化を知る”とかいいながら、その中にいることすら気がつかず、それを行じてもいないことがたくさんあります。そして心の中にはいつも溢れるような情報と虚構の世界がたくさんあります。しかし、その一つ一つ余計なものをかなぐりすてていって、ついには何にもなくなったということもなくなる世界があるのです。それは自分で意識しなくてもわかるのですが、そういう体験に包まれていかない限り、本当の精神世界は自分の手にとれません。
 伝統の継承、文化の継承というのは、先人先達の生き様やそのあとを、そして熱意を丸ごと感じとって、実はこちらの方がひたすらに習い、ひたすらにひたすらに求め続けていって、はじめて伝わっていくものではないのでしょうか。