山村御流 奉花会 -奈良・円照寺-


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年に一度、山村御流(華道)のお家元、円照寺にて執り行なわれる奉花会に、今年もお邪魔して参りました。
いつもは、尼門跡に相応しい可憐な桜が楽しめるのですが、今年はやはり寒いのかまだ咲いてはいませんでした。
毎回、お邪魔する度に様々な事を思い、自身を省みる、花を生けるとはどういう事なのかという事を考えさせられる機会をいただいていますが、今回は、私も茶の湯においては流派に属して稽古をさせていただいている身ですので、流派というものに属する事についてあれこれと考えていました。
人間が集団となると、様々な人がそこへ集い、中には「この人は本当に道のお稽古をされているのだろうか」と疑いたくなるような方に出会ったりもします。初期仏教のお釈迦様の集団においても、現在の宗教団体においても同じ事が言えるかもしれません。
民芸運動の創始者である柳宗悦などは、茶人に対して辛辣な評価を下したりもしていました。
また、ハイセンスな方は、自身のセンスで花を生け、自身のお茶を楽しまれていて、「茶道なんてものは習わなくても良い。あのような人達の中に交わりたくもない」とまで仰るような方も時々いらっしゃいます。
ですが、はっきりと申し上げたいのは、流派の中に入らなくてはわからない事が絶対にあるのだという事です。それを知らずに批判めいた事を言う人には、私は少しがっかりしてしまうのです。
批判したくなる気持ちもわからなくもないのですが、道の稽古を励むという事は、その者自身の事であって、どんな人がいようとも、茶の湯の精神や真理が腐るわけではないと思うのです。
自身のセンスにおいてなさるのは自由ですし、何も申し上げる事は無いのですが、それに加えて、道の稽古や流派の事を批判するのは、その人の価値を下げてしまいかねないなと私などは思います。
流派に入ることによってのみいただける、自身へと流れ込んでくる流祖の悟りや教えがあり、人から人へ、連綿と受け継がれてきた尊い精神があるというものです。
このように思えるのも、たまたま私が素晴らしい師匠との御縁に恵まれているからであって、そこを忘れてはならないなと思う次第です。
何を学ぶにつけても、良き師匠との出会いを!
2010年奉花会の記事はこちら
-山村御流 華展の御案内-
近鉄百貨店 奈良店にて、5/31(金)~6/3(月)。
心にそっと寄り添う花に出会えます。
お近くの方は是非おでかけください。