友人と山科区小野の随心院に詣った。
雨僧正と呼ばれた仁海の開創である当寺は、真言宗の二大流派のうち小野流の本寺として栄えた、日本仏教史の上でも重要な寺である。しかし、現在では一般に小野小町ゆかりの寺として知られている。
一室に小野小町が自らに寄せられた恋文を下張りにして作ったという文張地蔵が安置されていた。寺の案内記によると、罪障消滅を願い、あわせて有縁の人々の供養をしたものだという。
古来日本には、亡き人の手紙を張り合わせ、その裏面に経を写して故人の冥福を祈った「消息経」というものがあった。罪業を消滅させるために作られたというこの文張地蔵も、おなじ趣旨のものと考えることができよう。
しかし、真っ黒な地蔵尊を前にして手を合わせようとした瞬間、ある違和感に気がついた。抵抗感と言ってもよいかもしれない。
昔から仏像の材については非常な注意が払われてきた。霊夢によって感得した木、光を放った木など、不思議な霊瑞を現した木で仏像を彫ったという寺院縁起は枚挙に暇がない。実際、ご神木や落雷した木などで作ったと思しき仏像が数多く残されている。
ところが、この地蔵は、愛欲の所産である恋文を材料にして作られたというのである。いくら供養のためとはいえ、崇拝の対象である仏像の材料とするとはどういうことなのか。私は今、何に手を合わせているのだろうか…
すぐに「煩悩即菩提」という言葉が浮かんだ。無数の艶書が集合して慈悲の尊像を形作っているその姿、それは物狂おしいような愛執が、そのままさとりの姿であることをを現しているのではなかろうか。われわれの人生から悩みが消えることはないだろうが、それをどうとらえるべきかは、われわれ自身にかかっている、そういうことを示しているのではなかろうか…
そんな一人合点に悦に入る私の隣で、友人は全く別の解釈をしていたようであった。
「昔の恋人からの手紙って、意外と処分に困るからなあ…」