元同僚のSさん逝く


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Sさんの記した紙焼きサイズ指定
私が研究所に勤務し始めた頃、季刊『禅文化』の編集をされていたのが、S女史だった。
私は事務職のあと、編集室に配属されたが、編集校正の基本的なことはSさんから教わった。
当時はワープロ専用機初期のころで、まだDTPではなく、レイアウト用紙に文字数や写真サイズを計算して割り付けていく方法で、写真も紙焼きにハトロン紙を合わせて拡大縮小の指示を鉛筆で書いたりしており、こういったことは、教わったというより、Sさんの受け持ったレイアウト用紙や校正紙を見て学んでいったように思う。
数年後、ご縁があってSさんは結婚退職され、天龍寺近くの造園業を営む男性の妻となられたが、編集スキルがあるため、天龍寺の刊行物の編集などを請けておられ、その仕事を禅文化研究所にいる私と協力して印刷会社に渡して発行するというようなワークフローができていた。
したがって、研究所を退職されたあとも、たびたび一つの仕事をする機会があったのだ。
Sさんが末期ガンで余命幾ばくも無いと、先月末(2010/9/25)、季刊『禅文化』のSさんのあとの編集担当である同僚Mさんから、突然聞かされた。驚いた。
Sさんは相変わらず天龍寺の刊行物の編集をし、近年は等持院の受付の仕事まで始めて、元気にされていると思っていたので、信じられなかったのだ。しかし既に見舞いにいったというMさんがいうには、もう見る影も無いほど弱られていると……。ただ、会いに行ったらとても喜んでくれた。多くの人には自分の病気と入院を告げていないようだが、あなたもお見舞いにいって上げて欲しいと言われた。
二日後の夕刻、仕事帰りに京都第2日赤病院の病室を訪ねた。部屋は真っ暗だったので、そっと呼びかけてみると小さな声で返事があった。明るいとつらいらしく、ドアに近いところの薄明かりをつけて面会した。私の知るSさんとは思えないほど痩せておられた。ちょうど訪ねたとき、吐き気がするらしく辛そうだったが、吐き終わると楽になるのよと、私の来訪を手を握って喜んでくださった。
明るさになれてよく見ると薄化粧もしていて、話しかけることにはニコニコと応じ、時々様子を見に来る看護師さんには、いちいち感謝の声をかけておられたのが印象的だ。
うがいをしたいから、病床から身体を起こしたいので手伝ってと言われ、支えたその背中、足の細いこと。もともと太ってはおられなかったが、中肉中背のしっかりした体つきだっただけに、言葉を失った。
私の近況のことも語り、Sさんの息子さんのことなどもお聞きし、小一時間を一緒に過ごした。時折、冗談を言うと、元気なときと寸分変わらぬ力強い明るい声で、彼女の好きな冗談を言い返された。
「疲れるだろうしそろそろ帰るね」というと、また手を出して握手を求められ、「また来るから元気出してね」というと、顔をくちゃくちゃにして笑われた。
また翌週にでもお見舞いにこよう思って病院をあとにした。
一昨日午後2時、Sさんは帰らぬ人となられた。享年65。こんなに早いとは思わなかった。入院して半月である。
生涯頑張って仕事をされ、やっともらい始めたという年金で、定年退職されたご主人とこれからの人生を楽しんで欲しかった。それなのに、まるで病気になった自分を羞じるかのように、ほとんどの人に告げずにそっと逝ってしまわれた。だがしかし、ご自身は、ずっと禅と関わってこられた方らしく、毅然として逝かれたに違いないと思う。
いま思い返すと、病室を出るときに私に向けられた笑顔には、自分の残り短いであろういのちについての覚悟と、私との別れの気持ちも表われていたようだ。
愛別離苦の四苦からの脱却は仏教の基本だが、Sさんと握りあった手の感覚がしばらく抜けないだろう。心よりご冥福をお祈りする。

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Sさんと一緒にした最後の仕事