『禅文化』224号 技を訪う -Ajee バングラデシュの手仕事-


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日々の生活で出会った素晴らしい様々な“技”を、季刊『禅文化』にてご紹介しています。
本ブログでもご紹介させていただきます。
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季刊『禅文化』224号より
“技を訪う -Ajee バングラデシュの手仕事-”  川辺紀子(禅文化研究所所員)
 風が秋の気配に変わったので、部屋に敷くラグ(カーペットの一種)を探し始めた。輸入家具を扱う洒落れた店に行けばすぐに気に入る物はみつかるだろうと高をくくっていたが、歩きまわって探したものの、美しさ・値段共に納得できる“良いもの”はみつけられなかった。
 量産された規格品はそれなりに見栄えの良い物でも、どれも同じように目に映り、面白みがない。かといって、キリム(トルコ・イラン・アフガニスタンなどの一部地域で織られる、平織りの敷物)の素敵なものは値段も張り、エスニックな模様は、私の部屋ではやや主張しすぎる嫌いもある。
 色合いが気になる物は、実際に手にとって見ることのできないネットでは買わないことにしていたのだが、ラグにはどんなものがあるのだろうとさまざまな店を検索していて、ふと、素朴で美しい、チベット僧の衣の色をもっと深くしたような色合いのラグが目に留まった。私はすっかり心を奪われてしまった。バングラデシュの村で伝統的な方法により一枚ずつ織られているというラグで、全く同じものは一枚もない。店のホームページを見ると、バングラデシュの手仕事を愛する店主の気持ちが強く伝わってくる。それがフェアトレード(途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することによって、立場の弱い途上国の生産者や労働者が十分に暮らしていける価格や賃金を保障し、生活の改善と自立を促す運動)で販売されていることで、さらに共感が増した。何の迷いもなく注文して到着を心待ちにした。



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 丁寧な包みを開いて初めて目にしたそのラグは、モニターで見るよりも深い色合いが格段に美しく、手織りの微妙な風合いが何とも部屋にしっくり馴染み、思った以上に満足したのだった。
 その後も店主のブログを見ていたが、バングラデシュの村の人々との丁寧な交流の姿に、ますます引きつけられた。この人はいったいどういう人なのだろう。取材を申し込むとすぐに快諾してくださり、福井のショップ兼ご自宅に伺った。
 きっと多くの人が、「途上国の人のためによくそこまでできますね」「偉いもんですね人様のために」と、彼女に言うだろう。私もやはりそう言ったのだったが、彼女は柔らかな表情で淡々と、「誰のためでもなく、自分のためなんです」と答えられたのだった。

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 「お金に困っている人の気持ちはよくわかるんです」
 そう言う店主の小沢えつ子さんは、高校は育英会の援助を得て通学。卓球でインターハイに出場し、大学からスポーツ推薦入学の誘いもあったが、経済上の理由で進学を諦めた。
 亡き父親が残した借金の返済もあり、高校卒業後は給料も良く安定した地元の金融機関に七年半勤める。その後二度の転職をした。時はバブル真っ只中。大阪の会社が接待のために作ったゴルフ場で接待役をし、世間でいうところのVIPの世界を垣間見た。もてはやされ、横柄になって一見華やかな生活を送る人達も、裏では多額の借金に苦しみ、虚栄と虚構の世界を生きていた。そんな世界を見るのに辟易し、福祉の仕事へと転身を図る。友人が働いていたということもあるが、何よりも、十七歳の時に父を亡くしたことが大きく作用した。父親は七年ほど寝たきりであったが、多感な時期だったこともあって反発し、優しくできなかった。また、親戚が心筋梗塞で倒れ、三日後に亡くなったが、その場にいて何の応急処置もできなかったことが悔やまれた。
 当時の福祉施設は、他の職を得られずに働いている人も多く、世間体が悪く職業的地位も低い。施設では利用者虐待もあり、劣悪な環境であったという。「家族も反対しましたし、バブル絶頂の頃ですから、なんでまたそんなところへと言う友人も多かったんです。でも、何も知らなかったから行けたのだと思います」。しかし、これまでの自分の常識、価値観が通用しない、信じられないことが起きる職場でのストレスは半端ではなく、半年で彼女の身体を蝕んだ。生命の危機に瀕したが、手術を受けてあと一歩のところで奇跡的に助かり職場復帰を果たした。しかし、素人同然の立場では意見を言う権利すらないため、三年間働き介護福祉士の資格を取り主任になった。さらに五年働いて社会福祉士の資格も得て、職場の環境改善に取り組んでゆくうちに十一年経っていた。
 「自分にとって必要で、とても良い仕事でした」。介護保険が導入される以前で、ある意味皆平等だった。日本国籍すらなく道端で倒れていたような人が運び込まれても、昨日まで社長だった人がきても、食事も同じ、部屋も同じ。そんななかで、「死ぬ時は皆一緒だな。身ひとつで人間は死んでゆくのだ」と知ったという。
 人材も育ち、自分がいなくてももう大丈夫だろうと、介護施設を辞めてインドに旅立ち、マザーテレサの“死を待つ人の家”でボランティア活動をした。帰国後、英語力を磨くためにペンパルを求め、ITの会社に勤めながら福祉活動を行なっているバングラデシュの男性とやりとりを始めた。バングラデシュの政治や経済、貧困層などについて知ることとなったが、ある日、「バングラデシュの村で作られた手工芸品を日本で売ってくれないか」と相談を持ちかけられた。何軒か国内のフェアトレードショップをまわってみたが、どこの店も大きなフェアトレード団体から仕入れた物を売っているのみで、直接やりとりをすることは不可能だと言う。それならばと自分でバングラデシュまででかけてゆき、実際に素朴な手工芸品を目にすると、元々編み物や刺繍などの手仕事が好きだった小沢さんの心にピタリと通じるものがあり、物販の経験はないがやってみようと決心した。「インドから帰ったら、独立して社会福祉事務所を立ち上げてもいいかな」と思っていた小沢さんの、これが転機となった。

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 バングラデシュの首都ダッカからバスで十時間以上、未だ電気もない僻地にある村の生活の糧は現在のところラグの収入のみ。それでも、小沢さんが店を始めた五年前には十軒ほどしか家がなかった村が、今では五十軒にまで成長し、子どもは皆学校へ通い、初めて大学へ進学する子も出てきた。
 寸法の概念もなく、色への頓着もなく、日本の暮らしがどういうものか、それよりも日本がどこにあるのかもわからない人達にオーダーして物を作ってもらう苦労は、ひとくちには言えず、それにまつわるびっくりするようなエピソードは数知れない。
 それでも、ムガル帝国時代から伝わる伝統的な柄のラグに加え、今ではこちらがデザインして発注したものを日本の顧客に届けるまでになっている。
 その上、バングラデシュの首都ダッカに住むストリートチルドレンのための施設建設に向けて、特定の商品の売り上げを積み立て、ダッカ郊外に土地を買うところまでこぎつけた。今後は、バングラデシュ国内に彼ら自身のショップを開いてもらうことが夢なのだという。
 どこの国も辿る道は同じで、細かい仕事を嫌がり、外資の工場で楽に賃金を得たいために、伝統的な手工芸に従事する若者が減っているのだという。経済の発展を望むことを止めることはできないが、既にその道を通ってきた日本人が、アジアの国々に示せるところはあるし、またその責任もあるのだと小沢さんは言う。質の良い物を作れば高い値段で売れるし、店が持てたら、最近ダッカに増えた富裕層のみならず、外国人が土産として買ってくれるということを、彼女は地道に伝えている。日本人の目に叶えば、世界中どこへ出しても認められる商品ということになるだろう。

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 小沢さんの店の名、 “Ajee(アジー)” は、ベンガル語の “今日、今” という言葉をもじってつけたという。「大切にものを選ぶことは大切に生きること」、「作り手の顔が見えることは暮らしを楽しむこと」と店のポリシーにあるのだが、東日本大震災以後、とりわけ “繋がり” を強く意識しはじめた中で出会ったこの美しいラグに、私が今大切にしたい思いまでも含まれていたことを心から嬉しく思う。
 「悩みは尽きないし、ぐじぐじしてますし、主体性もないんですよ」と笑う小沢さんは、こんな大きなプロジェクトに取り組んでいる人には思えないほど気負いが感じられない。スッと筋の通った人には違いないがそれにしても、温かい、柔らかい。
 深淵に佇んだことのある人の奥行きだろうか。

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 「最近の若い人に夢がないって耳にしますけれど、生きている間は短いので、怖がらずに思うようにやってもらいたいなと思いますね。でもそれを言うには、自分が諦めずに色々やっていくことだなと思います。いつも悩みの中にいますが、最近思うのは、悩んでもいい、自分のペースで進むということですね。大病して“死”が間近に迫った時、何もしてこなかったという後悔、人に迷惑をかけっぱなしだったという申し訳なさだけがありました。死ぬこと自体は恐くはなかったですね、誰にでも訪れますし。死んだら死んだでその先に何があるのかないのか、生まれ変わるのか変わらないのか、ただそれだけですよね。また違う先があるだけの話ですね」。
フェアトレード雑貨店 Ajee
代表 小沢えつ子