修練

修練。などとおおげさなタイトルにしてしまいましたが、以前-技を訪う-でも書かせていただきましたが、週に一度、ヨガのお稽古を続けています。始めてからは2年と少しです。
先月、鼻炎なのか風邪なのか、咳が止まらなくなり、お稽古を1ヶ月ほどお休みしました。
お稽古復活の日、「せっかく続けてきたのに、この休んだ1ヶ月でたるんだ身体を元に戻すのにはまた何ヶ月かかかるのだろうな…今日は身体も動かないだろう」と、少し沈んだ気分ででかけました。
ところが、レッスンが始まると、意外にも身体は生き生きと先生の声に合わせて動き、そんな身体に支えられて、沈んだ気分も上昇。明るい気持ちで稽古に打ち込む事ができたのです。
ヨガを始めるまでは、特に身体を動かす事をしていなかったので、いつもどちらかというと、「私はできる」という精神が、身体を支えて頑張っている感じだったのが、初めて身体に支えらるという事を知りました。
新たな気付きを得たという事では、休んだ1ヶ月も無駄ではなかったようです。
また、自分でも気付かぬうちに、少しでも強くしなやかな身体になっていたというのは、先生のとても細かく丁寧なご指導の賜物……と、心より有難く思いました。
ふと、茶の湯の師匠の事も思い出しました。同じく、とても細かく丁寧な指導をしてくださるのです。人によってはそれを、「お茶の点前は細かくてうるさい」などと思うようですが、そこには大きな意味があるのですよね。それを会得するには、長く続ける事しか無いのだな……と思います。
師と弟子の蝠髄崧ッ時、心通いあうところというのが、ようやくわかってきたこの頃です。
茶の湯やヨガでは、師や仲間と寝食を共にするというのは私の場合、さすがにありませんが、それでもわかってくるものがある。ならば、僧堂ではどうだろう……と、いつも羨望のまなざしを向けている私なのです。
(↑「そんな理想を持っている者ほど、僧堂に入ると続かない」と言われましたが。笑 お坊さん達は面白いですね)