季刊禅文化227号を発行しました。
★「特集 今、なぜ久松真一か」
今年は久松真一博士が亡くなられて33年になります。逝去の年(1980)に本誌で「特集 抱石庵 久松真一の世界」(『禅文化』97号)を組ませていただきましたが、その折、ご執筆くださった方々の多くはすでに鬼籍に入っておられます。このたびは、次世代の方たちにもご登場願い、あらためて「久松真一の世界」を問うてみました。
以下に特集の一編「久松先生の機用」(辻村公一)の一節をご紹介します。
先生がフライブルクを訪問された時、マルティン・ハイデッガーは各地の哲学者、芸術家、批評家を三十名ばかり招いて、先生を囲んで「芸術についてのコロクィウム」を催した。筆者は友人アルフレド・グッツォーニ君に援助を頼んで通訳を勤めた。色々な質疑応答が行なわれたが、その中で或る人が「或る芸術作品が根源から出た物であるか否かは、如何なる基準に依って判別されるのか」と問うた。如何にも西洋人らしい学者的な質問である。その問いに対して先生は立ち処に答えられた。「それは根源から判ります」と。満場は息を呑んでシーンとした。
★トークセッション 「禅とキリスト教の出会い」では、禅の側から、安永祖堂老師、キリスト教の側から、禅を受容したキリスト教のありかた「禅キリスト教」を説かれる新約聖書学の佐藤研(みがく)先生にご登場願いました。
それまでは数息観などをやっていたのに、突然(ラサール)神父は私に『無門関』第一則の「無字」という公案をくださったのです。びっくりしました。こんなことを私がやってしまったら、今まで自分がやってきた新約聖書学の中の何かがすっ飛ぶと思った。それと自分なりに持っていた信仰というものがなくなってしまうように思ったのです。ですから、「これだ」という不思議な感覚と、これを本当にやったら自分のこれまでが全部崩壊するという恐れの間で、それからの一年間は毎日闘いました。(「キリスト教の側より」佐藤研)
今号も興味深い記事が満載です。ぜひご一読ください。
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