『生のうた死のうた』書評

7月16日(日)、北國新聞の朝刊に、禅文化研究所発刊の『生のうた死のうた』が採りあげられました。
北國新聞社様の御厚意により、こちらで紹介させていただきます。

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以下、北国新聞 7月16日(日)朝刊 【この一冊】より

著者は「あとがき」にいう。「短歌は短い詩型であるが、多くの言葉を連ねるよりも深く、あるいは鋭く、生命世界が暗示されることがある」と。
一首三十一音はいわば小宇宙。歌人(うたひと)のこころはその中に光り輝く一つの恒星にたとえることができるのかもしれない。著者は星の光芒を追尾しながら、自身の生の拠り所を見極めようとしているかのようだ。


とりあげられているのは三十五の歌人。斎藤茂吉、石川啄木、若山牧水といった代表的な歌人以外にも樋口一葉、尾崎翠、田山花袋(小説家)や多田智満子(詩人)など、大変多彩な顔ぶれとなっている点が魅力的である。それぞれの人生を細やかに紹介しながら、その歌が生の結晶たりえていることを達意の文章で語りかけている。一篇は一首鑑賞のスタイルをとっているにもかかわらず、歌人の生命世界をまるごと捉えているところがあって、歌人論のエキスを味わったかのような醍醐味がある。
例えば「美しき誤算のひとつわれのみが昂ぶりて逢い重ねしことも」と歌った岸上大作をとりあげて、「かつての片恋青年と、いわゆるストーカーとの大きな違いは、失意の刃を自分に向けていく力の有無にあるのではないか」と述べているが、なるほどと思う。岸上は六〇年安保闘争の挫折と失恋の果てに二十一歳で自死した歌人である。岸上の生き方死に方はぶざまなものであったかもしれないが、当時の社会はそれを許容していたということもできる。
「デタラメで悲しくて、ぶざまでおかしな人間の、真率の思いが失われていく」ことに、著者は危機感を抱いているようだ。短歌は高尚な遊びではない。ぶざまでおかしくて、それでもいとおしくてならない、そういう人間存在を絶対的に肯定する力こそが短歌の力なのだ。そのことに本書は気づかせてくれる。
著者の佐伯裕子さんは本紙「北國歌壇」選者に就任された。その選や選評もまた楽しみにしたい。
 評者=喜多昭夫・歌人、歌詩「つばさ」主宰