「われの名はシイラカンス……」


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ご本をいただいた。『我れの名はシイラカンス 三億年を生きるものなり』(小泉淳作著、日本経済新聞社、2012年)。日本経済新聞に連載された「私の履歴書」と、氏の画を合せて一冊にしたものだ。
私は寡聞にして「小泉淳作」の名を知らなかった……というより、覚えていなかった。本書をパラパラとめくり、東大寺本坊の襖絵写真を見て記憶が蘇った。東大寺を訪れた際、襖絵にいたく感激したのをはっきり思い出したのだ。そうかあれを描いた人が小泉淳作氏だったのか。
すぐに拝読した。数々の作品画像も見た。そしてわかった。この人は、絵も文章も陶芸もすごい人なのだ。
私はとりわけ「冬瓜」の絵に惹かれた。展覧会でこの絵を見たイサム・ノグチ氏が、「この絵には神様が宿っている」と言われたらしい。世に出るのが遅かった小泉氏はそのことを素直に喜んでおられる。

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冬瓜 小泉淳作

「売れる絵」に背を向け、納得する絵をひたすら追求してきた氏が、絵で生計を立てられるようになったのは六十歳すぎてからだという。
それまでの氏は「画家では食えずに副業の商業デザインや陶芸を手がけて暮らしの糧にしたが、絵筆は手放さなかった。絵のことばかり考えてきた」のだ。しかし、副業で家族を養い、「絵のことばかり」考えて生きる日々は大抵ではない。腹立ちや鬱憤に心乱れることだってある。そんな頃、縁あって知り合った物理学者の武谷三男氏が、「人生は妥協の連続ですよ。人は妥協しなければ生きていけません。でもね、生きる上でひとつだけ妥協しないものを持たなくちゃね」と言われたという。知遇を得たのは1955年、武谷氏の言葉に勇気づけられた小泉氏の強靭な意志は、その後びくともしていない。
それにしても、「私の履歴書」に描かれる出会いのすばらしさはどうだろう。無名の画家であり、人見知りする質(たち)の氏が、こんなにも多くの人たちに支えられたことは驚きだ。彼の芸術家としての魂が終始揺るぎなくホンモノであったことが、人々を惹き付けずにはおかなかったのだろうか。
因みに、建長寺法堂天井画「雲龍図」・建仁寺法堂天井画「双龍図」の両作品も小泉画伯による晩年の大作である。