東北地方を襲った大震災と大津波によって彼の地の人々は、それまでの平和な生活を一瞬にして破壊され、さらにそれに伴って起こった福島原発のメルトダウンという人災によって、多くの被災者が二年を経過した今もなお救いのない生活を強いられている。これらの人々が、一日も早く満足できる元の生活に復帰されることを心より願っている一人である。
天災と人災という二重の災害によって、この国の人々が共有したあの日の恐怖は、時とともに過去の出来事となって風化し、いまは直接その被害を蒙った人たちだけの、「生活の問題」として矮小化され、処理されつつあるように見える。
私は仏教徒の一人として、この大災害の体験は、この国に住む人間一人ひとりが、実存的課題として反復し続けるべきものであり、偶たま起こった出来事として、記憶の底に沈めるべきものではないと思う。では、私の言う「実存的課題」とは何か。
その第一は、常に自己を取り巻く「自然に対する畏敬の念」を抱き続ける、ということである。言うまでもないことであるが、われわれ地上の生物は、例外なく自然の恩恵によって生存している。そういう自然は子を育む親のように、優しいばかりである筈がない。自然が時として激しい怒りを見せてくるのは当然である。今回の災害も自然の見せた怒りの一端であれば、今後これを防ごうとする最低の努力はあっても、「反自然的」な道を模索するべきではないと思う。
第二には、「人間の弱さの自覚」ということである。今回の大震災によって被災地の人たちばかりでなく、被災地から遠く離れた人たちもボランティア活動を通して、「お互いに助け合う」ことの重要さを痛感した。
そのことが震災直後、「絆」という言葉となってこの国の人々の口にされた。弱い人間はお互いの支えあいがなければ、自分一人で生きることはできないという、きわめて当然のことが、大震災によって今更のようにお互いに自覚されたのである。この貴重な自覚を、平安な時においても持ち続けなければ、弱さの自覚を本質とする人間の忘却につながるということである。
第三は、科学神話に酔いしれた現代人の「傲慢についての反省」ということである。私はこの点において、早くから科学の進歩に対し懐疑的であった。
確かに現代に生きるわれわれは、例外なく科学の恩恵に浴している。しかし長いスパンで見れば、その行く先には間違いなく破綻と絶望が待ち受けているということである。殊に延命を目指して進歩した西洋近代医学のお陰で、今や「死ねない時代がやってきた」のである。
これほど人間にとって絶望的なことがあるだろうか。死があってこそ生の充実があり、死のない生は弛緩の連続でしかないであろう。いったいそういう間延びのした人生を望む人がいるのだろうか。
止まる処を知らぬ科学の発達が、いかに人間を破綻へと導くかは、今回の原発事故がはっきりと証明した。原発は絶対に廃止すべきである。便利と営利を目的としない限り、原発に依存する理由はどこにもない。自然の恵みを享受し、与えられる自然から与えられるエネルギーに甘んじれば充分ではないか。
被災地に赴いて助けの手を延すこともしなかった自分を恥じながら、二回目の3/11を迎えて、思いの一端を述べる次第である。
所長・西村惠信