お田植祭

 

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比叡山麓某所。
有り難い事に、お田植祭(田植えの際に、稲作の成功を祈る神事)に参加させていただきました。

稲が順調に育ち、実りをもたらしてくれるまでには、様々な厳しい自然条件を乗り越えなくてはなりません。我々にはどうしようもない領域の事です。

なにごとの おはしますかはしらねども  かたじけなさに 涙こぼるる    西行法師

 

田植え前の神事にて、近江神宮の神主さんがひたすらに頭を垂れる御姿を拝見するにつけ、恐れ多くも、西行さんが感じたのはこのような事ではないかという気持ちが自然と湧き起こりました。
良く手入れされ、無農薬で野菜や米を作っているその田畑の美しき事、日々の暮らしの確かさ、山の新緑の輝き、藤の花の香り、鶏の声。
全てが輝き、あまりに美しく、涙が流れて仕方がないのでした。

シンプルすぎるが故に、当たり前すぎるが故に、忘れがちな、一番大切な事。
本来農耕民族でありながら、日本人が経済成長とひきかえに置き去りにしてしまったもの。

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神事に引き続き、裸足になり、まだ小さな苗を自らの手で植えさせていただきました。田んぼに植わっている苗は見たことがあるはずなのに、自身で手に取ってみると、なんと小さくか弱い事か……。
これが秋には立派に実るのかと思うと、それはもう天(神、仏と言っても良いのでしょう)の働きとしか思えないのでした。

当たり前に、幼い頃から田植えというものが身近にあれば気づかなかったかもしれない事を、初めての体験がこの年齢(35歳)で、しかも祈りの後であった事は、強烈な自覚を促す実体験となりました。そういった意味では、今年の春が、私にとっては好機だったのかもしれません。

自分の中に深く刻まれた先祖の記憶が蘇ったような気がして、「あぁ、私はまさしく日本人なのだ」と、何度も何度もその思いを噛みしめました。

こちらのご当主が仰った、「田植えをしてこそ日本人。植えたならば、刈り取りもしなくては」との御言葉通り、半人前な日本人の私は、秋の抜穂祭をまた楽しみにしています。

……そんな時にだけのこのこと出かけて行って、まぁまるで、美味しいとこ取りのような私ですが、色々な事が分断された都会で育った私が、少しずつ、少しずつ、自然と繋がり、本来の人の在りようを取り戻してゆく過程として、お許しいただきたいと思います。

本当の意味で、地に足ついた生活を送られているこちらのご当主。本当に素敵な方で、私は魅了されています。
でかける度に大きな収穫があるようなこの場所と共に、『禅文化』でご紹介させていただきたいと思っています。
お楽しみに!

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