日々の生活で出会った素晴らしい様々な“技”を、季刊『禅文化』にてご紹介しています。
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季刊『禅文化』228号より
“大香合献納 -鎌倉彫 三橋鎌嶺-” 川辺紀子(禅文化研究所所員)
-大香合 三橋鎌嶺作- 写真・原田寛氏
鎌倉彫。ひんやりと手に吸い付くような漆の感覚。極限まで深く彫られた線が陰影を生み、その奥に潜む品格は、祈りの場で使われる物を仏師が作ったことが始まりとされる原点を、今なお失わない。
法要で使われる大香合 写真・原田寛氏
禅宗と共に大陸よりもたらされた堆朱、堆黒の類は、漆を何十回と塗り重ねた面に精緻な文様を彫り上げた美術工芸品で、大変貴重な物であったが、それらに大いに魅せられたであろう鎌倉時代の仏師の知恵と工夫により、まず木を彫ってから漆を塗り重ねるという、新たな木彫彩漆が生まれた。その古い型として残っているのが、重文にも指定されている建長寺の須弥壇、円覚寺の前机、南禅寺の大香合などである。
蓋裏には、吉田正道管長による由緒が刻まれる
“似たような新たな”物であるが、異国より入ってきた工芸品を真似て学び、独自の美術工芸品へと昇華させることは日本人の得意とするところであろう。貴族社会から武家社会へと大きく世が移り変わり、宋より多くの美術工芸品がもたらされ、時の権力者がこぞって禅宗に帰依した時代の空気をふくみつつ、日本人の柔らかな感性と風土の影響を多分に受け、日本独自のいわゆる“鎌倉彫”へと進化を遂げた。
大香合を制作する三橋鎌嶺氏
日本のいくつかの寺院には、鎌倉から室町期に納められた立派な鎌倉彫の大香合が現存する。しかし、建長寺には、堆朱・堆黒の類の大香合はあるが、なぜか鎌倉彫の大香合がない。そのことがずっと気になり、「鎌倉彫のルーツとも言える建長寺、鎌倉五山第一位の建長寺に鎌倉彫の大香合がないのは、何か釈然としない」との気持ちを持ち続けていたのが、鎌倉学園OBでもある鎌倉彫二陽堂の三橋鎌嶺氏であった。
結婚前に「やってみる?」と言われて始めた鎌倉彫が、手ほどきを受けるうちに面白くなり、その後、婿養子という形で妻の実家の家業を継ぐこととなる。デザインの考案、下絵描き、彫り、漆塗り、それぞれに職人がいてしかるべき仕事が、鎌倉彫の場合、一手にできねばならぬため、結婚後に義父について技術を修得するのはなまなかのことではなかったが、義父は「見て覚えろ」と言うだけで、口頭での指導は一切なかった。
三橋氏の場合、店舗は持たぬため、個人的なオーダーを受ける他に、所謂お稽古産業と呼ばれるカルチャーセンターなどで愛好家に鎌倉彫の手ほどきをすることと並行して、自身の作品を作り発表する個展を開催することを主としている。今ではご子息、鎌幽氏もその後を継ぎ、親子で作品を発表する機会も増えてきた。
三橋家特有の何層にもなる深い彫りと、その分手間の
かかる塗りにより生まれた品格ある食籠(鎌嶺作)
三橋氏自身、膝を痛めるまでは建長寺の坐禅会にも通い、掃き清められた寺の空間において自分をみつめることの尊さを身をもって経験されたが、「彼には私と違って、鎌倉仏師の血が流れているのです」というご子息はさらに、「仏師だったということが鎌倉彫の土台。先人を尋ねるような思いで禅を学びたい、空気を味わいたい。先人たちが生きた証があそこにあるのではないか、それを確かめに足を運んでいる」と、茶道の稽古を通じて吉田正道老師との御縁も繋がり、僧堂に出入りするようになって既に四年以上になる。
僧堂では、足を運ぶたびに再発見があり、また新たなスタートが切れるのだという。坐禅修行の厳しさでよく知られる建長僧堂である。吉田老師は鎌倉彫の話をしても「坐禅と一緒やなぁ」と、全て坐禅と重ねてお考えになられるという。「日々修行であって、何かを求めて仕事をするわけではない、ただひたすらに鎌倉彫だけをやっていればよい。鎌倉彫のために茶の湯の稽古をし、華道を稽古しても、茶人華人になるべからず、そこに没頭するのではないぞ」との仰せは、如何にも老師らしく、一つ所を黙々と修業し続けなければならない職人にとっては、ふと道からはずれそうな時に大きな支柱となるお言葉のように思える。また、「鎌倉彫を使って新しい商売をしたり、違う商売をしたりしようと思うな」とは、技術もままならぬうちに、うまく立ち回ってしまうようにならぬよう、職人としての土台をしっかりと築いて欲しいという老師の温かなお気持ちではないか。昨今、若い作家が修業も未熟なうちに色々なことをしようとするのがよく見受けられるが、そのことへの警鐘かもしれない。
白槇香合 三橋鎌幽作
雲水とも顔見知りのご子息だからこそのことであろう、開山蘭渓道隆禅師縁の柏槇の木を剪定された際に落とした枝をもらってきて、これで茶杓か香合を作るという。鎌倉仏師の血を引く彼が、僧堂の息吹を全身で受け止め、薪に使われるはずだった柏槇の木で、形あるもの、長く受け継がれるものを作り出す。
明治の廃仏毀釈の時代に職を失った仏師たちは、その多くが廃業せざるを得なかったが、鎌倉彫で茶道具や生活工芸品を制作し、この地に別荘を求めた上流階級の人々にもこの工芸品が浸透してゆき、技を守ってきたのが三橋家の先祖だった。そんな歴史を経て、再び禅宗と鎌倉彫が繋がった。その繋がりのなかで、建長寺に鎌倉彫の大香合がないことをずっと気にかけて来た鎌嶺氏の思いがとうとうこれ以上にないほどに高まり、2012年3月、鎌倉彫の大香合を完成、建長寺へ納めるまでに至る。
香合を制作中の三橋鎌幽氏
三橋家の明治時代の名工に、三橋了和という人がいる。自らも茶の湯を嗜み、表千家家元東京出張所にも足を運び、明治神宮の献茶式などでは道具を納めたりもしていた。そんな了和が、出家して大徳寺塔頭・玉林院にいた弟を頼りに京都へと趣き、その縁で、特に各地の工芸や国焼に理解の深かった表千家十二代家元・惺斎宗匠に可愛がられ、好み物を何点も作るようになった。その後、病を得て再び鎌倉の地に戻ることになるが、茶道の家元とこれだけ深い交流を重ねたのは、了和を除いて他にはなく、そのまま京都に残れば千家十職のもう一つの職方として数えられていたかもしれない。
そんな先祖の思いが受け継がれてか、鎌嶺氏は、縁ある玉林院の平成の大改修の折(2009年)には大香合を納めた。鎌幽氏は表千家不審庵家元に出入りを許され、了和の後継者としても認められ、その作品の写しも精力的に制作している。また、表千家長生庵前主・堀内宗心宗匠の自選展にも、とびきり若い職人として参加。今後を最も期待される職人の一人である。
香合の数々 鎌幽作
その時代時代の大きなうねりの中にあってなお、連綿と受け継がれて来た鎌倉彫の精神、職人の思いが、再び鎌倉禅と鎌倉彫、京都禅と鎌倉彫、茶の湯と鎌倉彫を繋げ、新たな展開をみせようとしている過渡期の今。大量生産品よりも、手作りのものの良さが見直されてきている世にあって、皮肉にも国内の材料が不足してきているという矛盾を抱える今。この今の積み重ねがどう未来へ繋がり新たな鎌倉彫の歴史を刻んでゆくのか。禅や禅の文化の歴史とも深く関わる鎌倉彫のこれからに注目してゆきたいと思う。