「新聞」や「テレビ」の魅力は日に日に薄れてゆくように思われる。早朝に朝刊に目を通して、この出来事は初耳だなとか、これは読んでヨカッタよと思うような記事に出会うことが稀になってきた。たいていの「事件」は、半日近くも前にすでにネットを通して見知っているし、それに対する何がしかのコメントも、名も知られていないような人のツイッターでお目にかかるものがまことに新鮮だったり、目からウロコだったりする。
こんなふうだから、これまでかなりの日本国民に、多岐にわたって影響を及ぼしてきた、新聞・テレビといった既存のメディアの行く末はかなり暗そうだ。すでに十代で、テレビとネットの視聴比率がひっくり返っている。彼らが三十、四十になるのはあっと言う間だ。十代からほど遠い私にしても、最近好んで見るのは「ニコニコ動画」だったりする。見たいものがいつだって見られるというのが大きい。
先日、ニコ動で「小沢一郎」さんと「堀江貴文」さんの対談を視聴した。二人の対談についてはかつてニュース記事に小さく「かみ合わず」とあったのを、ああそうだろうなとあまり驚きもせず目にしたのだが、たまたまネットでこの対談にめぐりあった。無料で見たいときに見られる仕組みはいいなあくらいの軽い気持ちで見始めたが、司会の茂木健一郎さんを含めた対話空間に、リアルタイムで視聴者からのコメントが流れるという、まったく無編集の「番組」であった。のっけから、茂木さんが「私はこのお二人が好きなんです」と言ったのが印象的だった。「普通」の箍(たが)が最初からハズレていた。見終わってちょっと驚いたのは、「小沢さん」ってこんな人だったの? 「堀江さん」ってこういうキャラ? という不思議な気持ちがわいたことだった。「小沢」「堀江」は「悪党」といった風評が世間(少なくとも私の周り)を取り巻いているのだが、少なくとも編集側の恣意のあまり働かない空間で、この「お二人」は驚くほどスマートだった。堀江さんが「小沢さんの笑顔かわいいですよね。新聞やテレビもこんな笑顔をもっと写すべきですよ」と言ったのでふと気づいたが、メディアが好んで用いる画像は、「世間受け」をねらっているのじゃないかなあということだ。メディアが世論を形成すると言っても過言ではないと思うが、民衆を巻き込んで形成された世論にメディア自体が追随し迎合してしまうという図式が何となく成り立ってしまっているのも事実ではないか。
かつて朝日新聞に、「明るい悩み相談室」というのがあった。中島らもの答えがすばらしいので、我が家でも朝日の購読をやめない大きな理由になっていた。今は土曜日のBe版に、「悩みのるつぼ」というのがあって、これもまたとても愉快なので、あともう少し購読を続けようかなんて、岡田斗司夫さんなんかの回答を待ちこがれながら思ってしまう。考えてみたら彼らは世論や世間のシステムに迎合しているふうが微塵もない。彼らの軽々とシステムを超えた肯定的な言に耳を傾けると、世間って案外気持ちがいいなと思ってしまえるくらいだ。
「ネット世代の新世紀」の出現を予想する夏野剛さんは、「若者よ、引きこもってググれ!」と言う。わたくしたちを取り巻く世間の「出来事」を、わたくしたち一人ひとりが「正しくまっとうに知る」ことの可能性もネットにあるとすれば、既存のメディアの絶大な影響力をあっさりスルーしてしまえる若い人たちの台頭は、ちょっと明るい未来を予感させる証かもしれないなあとも思うのだ。