先日、友人宅で大学時代のゼミ担当教授・松田高志先生による学びの会、分かち合いの会がありました。
この日のテーマは、『私の宗教観~イエスの例え話を手掛かりとして』。
聖書の様々な箇所を知る機会を得ました。そのうちの一つ、マタイ25章「タラントンの譬え」。タラントンは、いわゆるタレント(才能)の語源ですね。
旅に出る主人に、それぞれ力に応じて、5タラントンを預った僕は、それを元手にもう5タラントンを儲け、2タラントンの者は、もう2タラントンを儲け、帰ってきた主人に「よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」とほめられますが、1タラントンを預り、地中に埋め、大事に保管した僕は、「怠け者の悪い僕だ。この男からタラントンを取り上げ、10タラントン持っている者に与えよ。誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、もっていない人は持っているものまでも取り上げられる」と叱られ、追放されるお話。
皆さんは、このお話をどうお考えになられますか?
松田先生は、「神から見れば、力に応じて“少しのもの”を預けられたのだから、力一杯やれば必ずやれるのではないか、それどころか、まだまだやれると気づくのではないか、逆に大き過ぎるよう(神から見て僅か)で尻込みするなら、その“僅か”も失ってしまう」と仰っています。
私は、“信”を問われているように思いました。神を信じ、自身を信じる事への欠如についてを諌めているような……。人間の弱さ、もろさをよく突いていますね。
そこで思い出したのは、今度は禅のおはなし。
5月27日の花園大学学長講座にて、八幡の圓福僧堂の政道徳門老師が講演をされましたが、その内容が、『臨済録』-示衆-より、「信」という事についてでした。
「病は不自信の処に在り。菴黴若し自信不及(じしんふぎゅう)ならば、即便(すなわ)ち忙忙地(ぼうぼうじ)に一切の境に徇(したが)って転じ、他(か)の万境に回換(えかん)せられて、自由を得ず。菴黴(なんじ)若し能く念念馳求(ちぐ)の心を歇得(けっとく)せば、便ち祖仏と別ならず。汝は祖仏を識らんと欲得(ほっ)するや。祇だ汝、面前聴法底(ちょうぼうてい)是れなり。学人信不及にして、便ち外に向かって馳求(ちぐ)す。設(たと)い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終にその活祖意(かつそい)を得ず」。
仏教だ禅だと色々学んではその知識を人にひけらかしたり、さもわかったように説いたりするが、一体全体、自分自身がちゃんとそれを信じて飲み込んでいるのか。「良い薬がありますよ、この効用はこうでああで…」と話しているわりに、自分自身はその薬を服用もせず、病んでいたりしないか?!あれがいい、これがいいのでは?!と、結局定まる所を知らず、ウロウロしてはいないか?! という事をお話され、“信”について、聴衆に問われました。
仏教、キリスト教、つきつめれば世界の宗教は結局のところ、同じ事を言っているのでしょうか。
信じる者は、救われる?!