愛について

 

130910.jpg

瀬戸内晴美さんが出家して寂聴さんになられたとき、年を重ねるとそんな心境が訪れるものかと思った記憶がある。しかし、上野千鶴子さんが、「50歳になってみて、この年で出家した瀬戸内さんはすごい決断だったと思う」といったふうなことをどこかに書いておられたのを、自分が50歳になったときに思い出して、ひどく納得した。

瀬戸内さんは出家のとき、好きだった着物もさっと手放し、愛欲ともすっぱり手を切られた。至極当然なことにも思われるが、うじうじと詰まらないものに執着する私など、その思い切りの良さには、やはりアッパレという気持ちがわいてくる。

瀬戸内さんは、いっぱい恋をした人だ。恋のために、夫も幼い娘も捨てた。瀬戸内さんに書く才能がなければ、当時には珍しい奔放な女性という記憶が彼女を知るわずかの人たちに残ったに過ぎないだろう。しかし、瀬戸内さんは自らの来し方を、赤裸々に小説に描き、それが文学作品に昇華した。彼女の類まれな文才のなせる技だが、驚くほどの客観のまなざしを彼女が備えていたことも大きい。

「淡々と」という言葉をよく耳にするが、使っている人がほんとうに「淡々と」しているのを見ることは極めて稀だ。瀬戸内さんは「淡々と」なんてひっくりかえっても言わないが、彼女の私小説はきわめて「淡々と」している。つまりどろどろの瀬戸内さんがどこにもいないのだ。作家と呼ばれる人たちは、多かれ少なかれこの特性を備えた人たちなのだろうが、瀬戸内さんの場合、自分の両眼が1メートル前方から自分を見ているような感覚だったのだと思う

だから瀬戸内さんは、40代ですでに、「人の愛は、無償とみえ、無私をよそおうものほど自己愛の満足に過ぎない」と気づいたのだ。「母の愛は無償の愛」などと言われるが、突き詰めれば、「わが」子だからこその無償の愛であろう。このことに気づいた瀬戸内さんにとって、50歳の出家は遅きに失した感があったかもしれない。

お釈迦さまに遅れること21年。弥陀に深い憧れを抱いた瀬戸内さんは、恋人に駆け寄るがごとく、まっしぐらに仏門に入られた。以来、出家の寂聴師が、すぐ手の届くところにおられるような気がするのは、無私を装わない彼女の「慈愛」が、彼女を知らない私にも間違いなく注がれているという不思議な確信がわいてくるからかもしれない。

*写真 法隆寺 観音菩薩立像(百済観音) 
『週刊 古寺をゆく 法隆寺』小学館刊 より