自分が見えないようにしている痛い所をえぐり出されて見せられ、目を背けるわけにはゆかない。対峙しなければならない。
悶絶しながらよしもとばななさんの本を読んでいる私ですが、彼女の作品の常として、最後に一筋の光明が差します。まさに目から鱗、救われる瞬間です。
「お能と一緒だなぁ・・・・・・」などとぼんやり考えていました。
最近、乾いていた心に潤いを与えるかのごとく、ばななさんの本を読み続けています。流行りもん嫌いな私(愚かです)は、よしもとばなな作品を一冊も読んだ事がありませんでした。
昨年11月に、ダライ・ラマ法王の京都講演にて、猊下がばななさんと対談される事となり、それが初めてばななさんに触れる機会となったのです。
「何故よしもとばななさんなのだろう?!」と怪訝に思っていたのは、あまりばななさんを知らない者にとってはごく自然な疑問だったかもしれません。
そんな我々の気持ちを察してか、自身が初めてでかけたネパールのチベット寺院で、前世はチベット仏教の僧侶であった事を思い出した話、その後はチベット仏教について学んだり、ダライ・ラマ法王のご健康やご多幸を毎日お祈りし、チベットの人々の為に、できる限りの事はこつこつとしてきたことを述べられ、今日、ここにいさせてもらう事に何ら後ろめたい事も、恥ずかしい事も無い。とはっきりまずは宣言されたのです。
その後につづいた講演のすばらしさは、言うまでもありません。
その時を境にたくさんある作品を読み漁っている私ですが、“自己をみつめる”為に良い本が山ほどあります。昔読まれた方も、いまいちど読まれたならば、また違う発見があるかと思います。
生涯に亘って、私にとっても彼女の作品は良き友となることでしょう。