臨済義玄禅師

 

140207.jpg白隠慧鶴禅師 「無」 個人蔵

わが臨済宗の開祖・臨済義玄(りんざいぎげん)禅師は、唐代の禅僧で、867年に亡くなられました。平成28年には、臨済宗を挙げて、1150年の大遠忌法要が営まれます。

臨済禅師の行状はいくつかの書に記されていますが、弟子の慧然禅師が著わした『臨済録』を見てみましょう。
それによりますと、臨済禅師は若き日に黄檗希運禅師のもとで、まことに純粋に修行に打ち込んでおられたようです。その修行態度を見た首座(先輩)が感嘆して、あるとき「あなたはここにきてどのくらいになりますか」と尋ねます。
三年という答えをきいた首座は、それでは、黄檗禅師に参じて、「仏法の根本義は何ですか」と問うてごらんなさいと言います。言われた通りに臨済が質問すると、黄檗禅師はすぐさま臨済を棒で打ちます。
その後、再び首座に励まされて黄檗に参じますが、また打たれ、結局、三度尋ねて、三度打たれることになります。
臨済は「せっかくお心にかけていただいたのに、奥義を悟ることができません。お暇をいただきます」と首座に言って黄檗の元を去ろうとしますが、そのとき首座は、「それなら、必ず黄檗禅師にご挨拶をしてから行きなさい」と言います。首座は臨済より先に黄檗禅師のところに行って、「なかなか見どころのある若者ですから、どうかよろしくお導きください」と頼みます。黄檗は、「ここを去るなら、大愚和尚のところに行け」と言います。
大愚を訪ねた臨済は、「黄檗和尚に三度、仏法の根本義を尋ねて、三度打たれました。何が悪かったのでしょう」と聞きます。大愚は、「黄檗はそんなに親切におまえに対してくれているのに、ここまでやって来て、何が悪かったのでしょうと私に尋ねるのか」と言います。
臨済禅師はそこでたちまち大悟するのです。

難解な禅語録や史書は、入矢義高先生、柳田聖山先生をはじめとする諸研究者方のおかげで、こんなふうに私たちにも親しめるようになりました。

禅師たちの悟りの機縁には黄檗禅師や大愚和尚のようなお師匠さんたちの「親切」がごろごろあふれています。
棒で打ちのめすことのどこが「親切」なのかとも思われるのですが、弟子にとってはもちろんのこと、師の方も棒で打ってやろうなんて微塵も思っていなかったに違いない。この棒は「思いもよらない」ところから湧き出たものでしょう。「何故無し」の棒だからこそ棒が生きる。生きた棒は真の禅者を誕生させます。

こんなふうに、わたくしたちの時代まで、脈々と灯が伝わってきたのです。1150年は大した「時間」です。しかしもし今、わたくしたちが真に臨済禅師に会うことができたら、この1150年は瞬時に消え去ることでしょう。

臨済禅師からおよそ400年後に出られた大燈国師は、「とんでもなく離れていても、かたときも離れていない」と言っておられます。時を経ていても、大燈国師は臨済禅師とピタリとひとつであったに違いありません。それこそが「禅」であり、「伝灯」でありましょう。祖師に見(まみ)える。このことは僧俗も問わないかもしれません。

こんな融通無碍な「系譜」を思うと、凡夫の私のこころも何とはなしに浮き立ってくるのです。