4月中旬のことでしたが、「仏教国際交流会サンギーティの会」としての件のディスカッションに、会を主宰する加藤悦子女史から参加を呼びかけられまして、臨済宗の僧侶として参加してきました。
「家族葬」「直葬」「ゼロ葬」と、簡略化の一途をたどる葬儀法要について、僧侶、葬儀社スタッフ、一般の三者計10名が集い意見を述べ合ったのです。
まず、葬祭業に従事される方から現在の葬儀事情の実体をお話しいただきました。関西の方なので、東京の事情とは異なるように思われましたが、「家族葬」「直葬」「ゼロ葬」などというやり方は、なにも経費節減だという意識や、信仰心がないというためだけではなく、もっと複雑な色々な事情がある場合が多い(高齢であるため知友が少ないことや、喪主となる人が故人の遠縁でしかない場合など)というご意見でした。
マスコミでよく葬儀離れが取りざたされるのは、やはり東京の話が多く、地方ではそれほど強烈な変化はないようですので、少し安心はしました。
僧侶として私の他には、真言宗のお二方、そしてモンゴル僧(現在、佛教大学に留学中)がおられ、そのうち真言宗僧侶のお一人は神道のことにもお詳しく、日本のお盆の精霊迎えというのは、もともと神道の氏神の考え方から来ているのではないかと思うというお話は、なるほどと興味深く聞きました。
六道輪廻するのが仏教の教えですが、日本の場合、ご先祖がお盆に戻ってきたり、またあの世に戻っていかれるという考えがあるのは、他の国にはないことですからね。
私自身の意見としては、「葬儀は文化である」ということで、いま葬儀が葬儀社主導のもとに変遷しているのは、ある意味仕方がないと思うということでした。つまり葬儀を行なうことは信仰ではなく文化活動に近いと思うのです。したがって簡単な葬儀でいいと考える方は、そもそも信仰というものが稀薄なわけで、かたや、世間の風潮とは関係なく丁寧なお葬式をしたいと考えるのは、信仰であろうと思うのです。
しかし世間の風潮がこのように変化してしまっているのは、僧侶の責任も多々あると思います。お通夜の席でもなんの法話もしない、法要の内容も説明しない、戒名の意味も話さないでは、葬儀にお坊さんなんかなくてもいいという気にもなるかと思います。檀信徒に信仰心をもっていただけるような活動をするのが、我々僧侶の仕事なのですから。
改めて、この葬儀の場こそ、檀信徒に法話をするいい機会であると心得、その場を活かしていかなければと再考させていただきました。
モンゴルの葬儀の様子なども聞かせていただき、あっという間の短い時間でしたが、いい勉強をさせていただきました。
サンギーティの会は、今後もこういった仏教の国際交流会を行なって行かれるようです。ご興味のある方は是非どうぞ。