山口にて 続

先週末のブログ「山口常栄寺・洞春寺へ」に続き、もう1回おつきあい下さい。
洞春寺にお邪魔した後、ありがたいことに洞春寺のご住職が私を車に乗せて、帰りの新幹線までの間に近隣を少し案内して下さいました。

20141117-nishida.jpgまずは、西田幾多郎(1870~1945)の下宿していたお宅です。この2階に住んでおられたとのこと。
ご存じの通り、西田幾太郎は、京都学派・西田哲学の創始者である著名な哲学者で、鈴木大拙とも石川県専門学校(四高)時代からの親友です。
石川県で生まれ、東京帝国大学を卒業後、四高で教鞭をとり、明治30年9月にこの山口の山口高等学校勤務となりました。
そのうちの一時期にここ岡部氏の一室に居住していたとのこと。
このお宅は洞春寺の檀家さんのお家とのことで、一時、解体するような話になったところ、西田が住んでいた部屋を崩すなどしてはいけないとの反対をうけて思いとどまられたとのこと。今はどなたもお住まいではないようですが、こうして保存されていました。
立て看板によると、山口市は、当時、日本で最初にフランシスコ・サビエルによってキリスト教の伝道が行なわれた場所である「大道寺跡」が発見されたばかりで、そのためにキリスト教に感心を向け、また当時の山口高校の北条校長の影響を受けて明治30年頃から妙心寺で坐禅をするようになり、山口時代に宗教的感心を持つようになって精神的転換がなされたようだとのことでした。

20141117-_ryufuku1.jpgさて、西田の下宿のすぐ近くにあるのが曹洞宗龍福寺というお寺。葺き替えられたばかりの檜皮葺が美しいです。
ここは、毛利元就の長男である隆元が、養父の大内義隆公の菩提寺として建立したお寺とのこと。もともとこの境内は大内の平城「大内館」の跡地だそうです。

20141117-_ryufuku2.jpg境内にある大内義隆の辞世の句をしるした石碑があり、

討つ人も 討たるヽ人も 諸ともに 如露亦如電応作如是観

とありました。最後は金剛般若波羅蜜経の一節ですね。義隆は家臣である陶晴賢の謀反により長門の大寧寺(たいねいじ・曹洞宗)に逃れ、大寧寺十三世異雪慶殊(いせつけいじゅ)和尚の弟子となり、その後、自刃されたそうで、その辞世の句だそうです。
敵も味方もどちらの命も、露や稲妻のように儚いものなのだ、という意味でしょう。

この句を称えるように、その横には不断桜がひっそりと咲いていました。

20141117-_ryufuku3.jpgこんな、日帰り山口への旅でした。