昨日は花園大学にて毎週月曜日に開催されております学長講座にお邪魔しました。
弊所の季刊『禅文化』にも連載いただいている、駒澤大学教授の小川隆先生がご登壇。
-語録の思想史-と題して、まずは語録を学ぶ上での導入ともいえるお話をしてくださいました。
「禅問答」を辞書で引くと、
①〔仏教〕禅宗で、修行僧と師とが一問一答をし、教義を会得すること。
②〔転じて〕わかったようなわからないような、ことばのやりとり。(学研『国語大辞典』)
とあるそうな。
「わかったようなわからないような、ことばのやりとり」とされてしまう“禅問答”。
ですが、この、一見意味が分らないようなやりとりが、実は、師匠に問いかけをした弟子自らが“気づき”を得るよう、“気づき”を促すような返答であった!
というところを、様々な語録を引用され、痛快に解説してくださいました。
ブラボー!と叫びたくなってしまいました。
私自身は参禅もしておりませんので、禅における師匠と弟子の世界がわかるといってはなりませんが、例えば茶の湯の世界でも同じです。
「畳の目6つのところに置いて…」、「それは右手ではなく左手で…」。事細かい処を身体にしみこませるよう、師匠から点前を指導されます。
こういう風に点前をすることが、精神的にどのような影響を及ぼし、どのような気づきがあるかなどという事は、当たり前ですがいちいち言葉で説明されません。長年稽古を積む中で、ぽつぽつと様々な気づきが訪れます。
表千家の堀内宗心宗匠が、「お茶の点前は、自分の身体の隅々までを意識して制御している間に、ひょっとして、自己解脱につながる契機ともなるのであります」。(弊所発刊『歩々清風』より)
と、仰っているのも、同じ事でしょうか。
禅の世界でも、茶の湯の世界でも、弟子にも辛抱がいりますが、師匠にはもっと忍耐と辛抱が必要かと思います。
一見すると、とんでもなく時間もかかるこのような“伝え方”ですが、実は法を永く伝える、茶の湯の伝統を永く伝えてゆくには、こういった指導こそ効率的に、確実に伝えてゆく最良の方法なのですね。
月曜日の午前中にお時間ある方は、是非とも花園大学学長講座へいらしてください。
予約必要無し、聴講無料です。詳細はこちらからどうぞ。