ラオス逍遙 後編

「ラオス逍遙 後編」 川辺紀子(禅文化研究所所員)

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-季刊『禅文化』235号より-

前号ではあくまでも旅行者の一視点から見たラオスのお国事情、ルアンパバーン滞在についてを簡単に触れた。今回は旅の最大の目的ともいえる「僧侶の托鉢」についてである。

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この国を訪れようと思った瞬間から、どこを調べてもマリーゴールド色の鮮やかな袈裟を纏った僧侶がずらりと並んで歩き、早朝に托鉢される様子の美しい写真を目にするようになる。

ラオスの仏教は、スリランカから伝わった南方仏教、いわゆる「上座部仏教」で、男性は誰でも一生に一度出家する。その期間は数週間の者もいれば、一生続く者もいる。お寺にいる間は衣食住全てがまかなわれ、就学期間の子どもであれば衣のまま登校し、教育費も寺院が負う。
女性は出家しない分(「現世が嫌になって出家する人もいる」と現地人が言っていたが……)、功徳を積むために熱心に喜捨する。そのせいか、早朝の托鉢で静かに並んで待つのは圧倒的に女性で、その表情には心打たれる真実味がある。

150723-2.jpgワットビスン 西瓜を割ったような形から、別名すいか寺とも

ガイドブックやネットで調べた情報では必ずといって良いほど、町のメインストリートでの托鉢拝観を勧めている。
その辺りのホテルなどは、目の前で繰り広げられる托鉢の様子がうたい文句だ。まるで、そこでしか托鉢が行なわれていないのか? と思ってしまうほどである。

150723-3.jpgホテルからの眺望

私は町中の喧噪が苦手で中心部からは少し離れたホテルに滞在した為、フロントで尋ねてみた。「他にも早朝に托鉢を拝観に行く客がいるからホテルの車を出す」というので、それに便乗することにし、翌朝五時起きでホテルを出発。

ホテルの車が停まった地域は、あろうことか托鉢を待つそのほとんどが観光客で、地元の人よりも多い。喜捨のための食べ物を売る商売人がうろうろしており、静かに托鉢を拝見させていただくどころか、彼らにつきまとわれてしまう。もちろん、異国の地で僧侶に喜捨してみたいというのもわかるし、良い経験になるだろう。だが、僧侶の列がやってくると、喜捨する同行者の写真を撮るため、僧侶の近くに何のためらいもなく近づき、行く手を阻む勢いで写真を撮り続ける人々は、どう見ても「托鉢に参加する自分を写真に撮ってもらい記念にする」という一種のアトラクションを楽しんでいるようにしか見えない。
観光客により町が支えられている面が大いにあり、その是非を問うのは難しいが、なんとなく釈然としない思いでその場を後にした。

150723-4.jpgフランス統治時代の名残 コロニアル建築が随所に見られる美しい町並み

が、ふと思い出した。「朝、メインストリートに向かう途中、ホテルのすぐ近くの道路に地元の人々がいた。
正装(伝統的な裂地の巻きスカートに、肩からショールをかける)して静かに待つその姿の美しさに心躍らせたではないか。もちろん観光客がいるような所ではない。明日はホテルの自転車を借りて、近場を巡ってみよう」。

150723-5.jpgまだ薄暗い中ホテルを後にし、昨日の目撃場所へと急ぐ。すると、ちょうど托鉢を待つ女性たちのところへ僧侶の一行がやってくるところであった。

150723-7.jpg少し離れた場所から拝見していると、一人一人の女性は、喜捨を終えると生飯(持参した餅米と水)を大地(万霊)に施し、それぞれが僧侶たちが進む方向へと身体の向きを変え、合掌している。

150723-6.jpg女性たち全員の喜捨が終わると、僧侶一行と女性たちが向き合い、読経が始まる。女性たちは静かに頭を垂れる。僧侶が去って行くと、皆な何事もなかったかのように方々へと帰路につくのだ。

150723-8.jpgなんとシンプルで美しい一連のお互いの所作であろう。施される者も施す者も後に何も引きずってはいない。おそらくはこれこそ昔からの托鉢のスタイルであろう光景に遭遇でき、有り難いものを拝見させていただけたと感謝。意気揚々と町のマーケットへと繰り出す道すがら、そこここで同じような光景が繰り広げられているのを目にした。何もメインストリートへゆくことなどこれっぽっちもなかったのだ。

150723-9.jpg本誌を読んでいただいている方々には本来の托鉢の姿をこそ拝観していただきたく、老婆心ながら私の経験を書かせていただいた。ルアンパバーンへゆけば、是非とも早起きをしてレンタサイクルを借り、一心にペダルを漕いで、静謐な空気漂う托鉢の光景を目指していただきたいと願う。

150723-10.jpg150723-11.jpgラオスの手仕事を拝見したいと様々なショップや工房も巡ったが、あの祈りの場において身に付けられていた織物や、お供えを置いたり入れたりされていた籠細工など、工芸品が日々の暮らしに当たり前のように溶け込んでいる姿をも拝見でき、感慨もひとしお。

どの国においても、祈りの場や日々の暮らしの場で当たり前のように使われてきたものにこそ、力強い美しさが宿ることを改めて教えられた。

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