多くの宗教というものがご利益というものを教えるのであるが、禅宗はそういうことを言わんのが建前である。自分の外にある神さまを拝んで、そのご利益をいただく、人間はそういう力のない奴隷的なもののごとくに、多くの宗教は教えるのであるが、そうではない。めいめいの中に神さまがあり、仏のあることが分かるならば、「能く千災を滅する」のだ。災難などは自然になくなってしまう。滅しようと思わんでも自然になくなるのである。心空王が分かるならば、心が空になるならば、災難は自然になくなる。
親鸞聖人も『歎異抄』の中で「念仏者は無碍の一道なり」と言うておられる。念仏を唱えておったら災難は自然になくなるのだ。頼んでなくなるのではない。念仏を唱えておったら、悪事や災難は自然に退散していくのだ。何も思わん者には敵はない。何も思わなければ、災難が向こうから避けていく。赤子のように無心であれば、千災はおのずから避けられるのである。
臨済禅師も言うておられる。「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自ずから至る」と。人間、生きておる間は、どうしてもいろいろないいことを求める。やっぱり生活も楽な方がよろしい。家庭も円満な方がよろしい。病気もせん方がよろしい。学問をする方は学問を成就したい。字や絵を書く方は早く立派なものが書きたい。商売をする方は成功したい。そのように、皆な願うことを持っておるが、その殊勝、何かいいことを頼んで求めては駄目だ、と。何かをあてにしたら、越中褌と何やらは向こうからはずれてくるのだ。正念相続し、真っ直ぐな心で生きていくならば、無心であるならば、「万徳を成就す」だ。おのずから体も健康になり、食べる物にも不自由せん。商売も繁盛し、学問も芸術も成就してくるのである、と。
「衣を思えば羅綺千重、食を思えば百味具足し、更に横病無し」と臨済禅師は言われた。本当に禅が分かり、本当に心が空になるならば、着物を着たいと思ったら、薄物でも羽二重でも、欲しいものはいつでも手に入る。「食を思えば百味具足す」、食べたいと思えば、どんなご馳走でも食べられる。「更に横病無し」、交通事故で死んだり、野垂れ死にするようなことは決してないと、臨済禅師も保証しておられる。
(『無文全集』第九巻p386~387より)