禅とは

とある和尚様にお目にかかると、何故かいつも私は、以前研究所の先輩がブログにて書いた“我(が)がゆるむ”という状態になるのでしょうか。普段親友にも話さない事をお話し、最後には号泣していたりします。
和尚様はただただ聴いてくださって、一言、二言、ぽつ、ぽつとお言葉を返してくださいます。

151116.jpg先日は畑から採ってきて洗ったばかりの春菊としいたけを、「持って帰りなさい」とだけ言って手渡してくださいました。
春菊を持った時の、葉っぱがきゅっきゅと音をたて、はちきれんばかりの新鮮な感覚。待ちきれずそのまま一枚ちぎって口へと運ぶと、さくっと音がして、塩味が来た後に、甘みが。そしてあの独特の香りが広がり滋味深く。

自宅へ帰り、シンプルに調理して食べ出すと、なぜだか判らぬままにホロホロと涙が。最後にはえんえんと泣きながらいただいていました。
お野菜が、まったくそのまんま和尚様だったのでした。
私が肩肘張って、身を固くして抱え込んでいたものが、一気に崩壊した瞬間でした。

1から10まで懇切丁寧に言葉で説き聞かせるわけではない、その在り方をもって人に気付かせてくださる。
気付くまで待つ。なんと慈悲深く尊い事でしょう。じっと待つ方はさぞかしもどかしい事と思います。

泣き止んで、「はぁ…禅ってこういう事なのか」と思ったのでした。

修行もしていない在家の者が突然「禅とは」などと、壮大なテーマを掲げたわけですが、うちの所長が『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』に書いているように、「禅はどこにでも転がっている」。

「禅とは○○である」と言葉では語れませんが、日々のくらしの中で、ぽつぽつと、こういう機会が訪れます。
皆さまの周りにも転がっているのだと思います。