独坐大雄峰

おはようございます。
私事ですが、お正月休みに、祖父が住職をしておりましたお寺さん(臨済宗妙心寺派・父は継いでおりませんので、私にとってはいつもお墓参りにでかける場所でした)へ久々にお墓参りにでかけて参りました。
和歌山の山奥で、なかなかお盆やお彼岸にでかけられずにおりますので、新年早々お参りができ、とても気持ちの良いものでした。

160107.jpg色々なお考えがおありかとは存じます。「千の風になって」という歌では、「そこ(墓)に私はいません」と歌詞にあります。私自身も、先祖や亡くなった方々は、「千の風にもなっていよう…」、「大海に帰って行ったのだ…」とも思います。

いつでもどこでも祈る事、拝む事はできます。がやはり、お墓やお仏壇の前にわざわざ行って手を合わせる事、故人を偲ぶ場所があるという事が、自身が生きて行く上での支えになっていると確信しています。これはもう理屈ではありません。
よく、ご先祖様に手を合わせる事は、自身を拝む事でもあると言いますが、そういう事でしょうか。

和歌山の海、川、山。大自然に抱かれていますと、心まで広く開放されるようでした。
特に山を見ますと思い出す禅語は「独坐大雄峰」。祖父の道号が“雄峰”であった事もありますし、この箇所の問答が好きという事もあります。
昨日は事務局長より御挨拶させていただきましたが、本年も禅文化研究所を、ブログ禅を宜しくお願い申し上げます。

ちなみに、時に「禅僧のくせにけしからんブログだ!」とおしかりを受けたりしますので、禅僧の名誉の為にお伝えしておきますと、研究所は禅僧のみならず、在家の職員もおりまして、在家の職員がブログを書く事が多いのです。
どうかお許し下さいませ。

「独坐大雄峰」につきましては、こちらや、こちらを是非ご覧になってみてくださいませ。