ムクゲの花―1日を懸命に生きる

160721.jpg今年も小生の山寺にムクゲが綺麗に咲いてくれました。いかにも弱々しい、あやうい花です。しかし、こう感じるのは、小生が日本語録や漢詩にドップリと浸かっているからでしょう。

日本の引導法語(僧侶が葬式に唱える法語)でもっとも多く用いられる花は、槿花(きんか)と書かれるムクゲだと思います。なぜか。それは、白居易が「放言五首」詩の第五詩で「松樹千年なるも終(つい)に是(こ)れ朽(く)ち、槿花一日なるも自(みずか)ら栄(えい)を為(な)す」と歌うように、ムクゲの花は、朝開き、夕方には落ちると言われるからです。また、その短い命を、すぐに乾く朝露にたとえて、露槿(ろきん)とも言います。

松は「松樹、千年の翠(みどり)」などと歌われるように永遠を象徴します。一方、ムクゲは「槿花、一日の紅(くれない)」などと歌われて無常を象徴します。禅者は、松を見、ムクゲを見て、永遠即無常、無常即永遠を悟るのだそうです。

小生が好きな「槿花」の詩があります。伊達政宗の教育係だった、仙台の虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚の詩です。

朝槿(ちょうきん)、籬(り)に傍(ぼう)して、涼露(しょうろ)清し、残葩(ざんぱ)、暮鐘(ぼしょう)の声(おと)を待たず。
若(も)し花、語を解(よ)くせば、松に向かって道(い)え、千歳(せんさい)の春秋、一日(いちじつ)の栄(えい)と。

というものです。この詩も、白居易の「放言」詩をモチーフにしたものです。つたない意訳をすると「朝、花を咲かせたムクゲは、まがきに寄り添い、すがすがしい朝露を帯びている。しかし、長くは保たず、その散り残った花でさえ、暮れの梵鐘が鳴るのを待たずに散って行く。ムクゲよ、もしも言葉がしゃべれたなら、松の木に言ってやれ、『あなたの千年の翠(みどり)も、この1日のわたしの栄華と同じことなのよ』と」。

1日を懸命に生きているこの花を見ると、お盆の近づいたことを知り、人生のはかなさを知り、故郷の母の安否が気にかかり、死んでいった多くの知人のことが思われ、短くても、そこには永遠(とわ)の人生があったのだなと、あらためて気づかされます。

最後に無粋な話になりますが、小生が山寺のムクゲを見ているかぎり、1日では落ちません。確かに命は短く、地面には沢山の花が落ちていますが、2、3日はもってくれます。それがまたいとおしくてならず、思わず「ガンバレッ」と声をかけます。しかし、ムクゲはきっと小生に向かって「あなたの命もわたしと同じなのよ」と語っているのでしょう。このムクゲのように、1日1日を懸命に生きようと思うのですが、ついつい千年の松をうらやんでしまう愚か者です。