小生が京都に来た時に常宿(じょうやど)にしている、ある宗門経営のホテル(旅館)がある。
ちなみに、ホテルと旅館との区別はなく、経営者が任意に選んでいいらしい。古風さを出したければ旅館、新しさを出したければホテル。そういった具合らしい。
そのホテルにチェックインしようとしてフロントに行った。
「ハイ、○○さまですね」「ハイ、そうです」と、一通りの手続きが終わると、その受付の男性(僧侶ではなかった。僧侶の時もある)が、二つの小さなカゴを少し押し出して言った、「カミソリとヘアブラシは部屋に置いておりませんので、ここでお持ち下さい」と。
小生は坊主なので髪の毛がない。
「カミソリはもらいますが、ヘアブラシは……」と、苦笑いを浮かべた。すると、その男性も、苦笑いを浮かべた。少しコッケイであったが、何だか楽しかった。宗門経営のホテルといっても、小生が見る限り、宿泊者は、ほとんど普通の旅行者である。なにしろ、費用が安い。その男性も、日常の言葉がつい出てしまったのだろう。
気にも止めなかったが、なぜ、坊さんは髪の毛をそるのだろう。神様がせっかく防御具として与えて下さったものなのに。戒律を記した経典には、半月に一度そりなさいとある。その理由は、諸縁を断ち切ることであるらしい。
臨済禅師・白隠禅師遠諱記念報恩接心より
修行道場にいる雲水は、四九日(しくにち)、毎月、4と9とがつく日に頭をそることになっており、諸縁を断ち切って、仏道修行に専念する。
しかし、古い中国の坊さんたちの肖像画を見ると、有髪、それも長髪の人が多い。これは、どういうことだ。もはや諸縁を断ち切っているから、剃髪(ていはつ)はいらないということか?
日本の仏教者は、現実社会のなかで活動し、仏法、慈悲、小欲を説いている。当然、妻もおれば、なまぐさも食べる。しかし、小生は、日本の仏教は、究極的な宗教の形態だと思っている。
そこで、なぜ髪の毛をそるのかと改めて考えた。えらそうなことは言えないが、現実社会のなかで活動していても、自分は僧侶なのだという自覚を忘れないため、人々につくすために生きているのだということを忘れないため、言葉は悪いが、髪の毛をそるというのは、一種のタトゥーではないのかと。