信長忌

425年前の天正10年(1582)6月2日、明智光秀の謀叛により、京都の本能寺で織田信長は自刃した。その直後、安土城は謎の出火により消失したという。築城してまだ3年が経ったばかりであった。
今はその城址を残すばかりで、天下の名城と呼ばれたその姿はない。

安土城址

さて、安土城築城と時を同じくして、信長は、城郭内に摠見寺(そうけんじ)という禅寺を建立した。今も臨済宗妙心寺派として残る寺院である。司馬遼太郎の著作を読むと、信長は腐敗した旧来の仏教や僧を嫌い、比叡山を焼き討ちした。また禅というものにも深く傾倒した様子もないので、少々不思議に思うところではある。
ともかく、信長の菩提寺として摠見寺は、近隣の社寺から多くの建物を移築して建てられたようだ。
但し、安政元年に消失したため、当時の堂宇は仁王門と三重塔が残るだけで、ほかは疎石を残すばかりである。現在の摠見寺の小さな本堂兼庫裡は、旧家康邸跡に立つ仮のものである。

摠見寺の参道

ここで、毎年6月2日に信長公と、開山圓鑑禅師の毎歳忌が行なわれている。筆者も今年からこの法要に呼ばれることになったのでお参りした。
因みに信長公の法名は、「摠見院殿大相國一品泰巖大居士」という。

毎歳忌の式次第
信長公肖像
余談だが、摠見寺とは、JR琵琶湖線の線路をはさんで反対側に位置する「信長の館」という博物館では、セルビア万博で展示された安土城天守閣の復元品を見ることができる。
安土城址を訪ねる前に、ここに入館して当時の面影を想像しつつ、その後に安土城址を登られるといいと思う。安土城のあった山は、今でこそ陸地にあるが、それは昭和になってから干拓されたためであって、本来、琵琶湖に突き出た半島であったのである。