昨年は臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱として、数々の行事が行なわれてきましたが、今年平成28年が、白隠禅師250年遠諱の正当年にあたります。
そこで、白隠禅師のもとで修行していた禅僧達の逸話をご紹介することにします。まずは東嶺円慈。
東嶺円慈和尚は、(滋賀県)神崎に生まれた。最初は古月に参じて悟るところがあった。その後、白隠禅師にまみえて侍者となり、数年の間に、禅師の家風をことごとく会得した。しかし、その辛参苦修によって重い病気にかかり、百薬の効果もなく、死に瀕していた。病の床で、東嶺和尚は考えた、
「わたしは既に禅の宗旨を究めたが、このまま死んでしまえば、宗門に対して何の役にも立つことができぬ」と。
そこで、『宗門無尽灯論』という一書を著わし、白隠禅師に見せて言った。
「もし、この中に有益なものがあれば、後世に残そうと思います。もしまた、杜撰(ずさん)だと思われれば、速やかに火中に投げて、焼いてしまいます」
その一書を読んだ禅師は、
「後世、悟りの眼(まなこ)を開かせる、点眼の薬となすべきものだ」
と、大いに評価された。
東嶺は、かくして禅師のもとを去り、京都白河辺に草庵を結び、養生に専念した。生死の根本を明らめ、死ぬもよし、生きるもよし、運命の自然に任せて時を過ごした。
ある日、無心の胸中から、白隠禅師の日常のはたらきを徹見した。それからは病気も次第に快復していった。喜びに堪えない東嶺は、そのことを禅師に書き送った。東嶺の手紙を見た禅師は大いに喜び、
「早く帰って来るように」
と返事をしたため、東嶺の帰山をうながした。東嶺は旅装を整え、松蔭寺に向かった。
松蔭寺に帰った東嶺に向かい、白隠禅師は自分の法衣を取り出し、
「わしは、この金襴の袈裟を着けて、碧巌録を四たび講じた。今、そなたに伝える。後世、断絶させてはならぬぞ」
と伝授し、東嶺は、その袈裟を押し頂いた。
この時から、師匠の白隠、弟子の東嶺、二人協議をしながら宗旨を立てていった。〈洞上五位〉や〈十重禁戒〉など、複雑な宗旨のこまごまとした解釈は、東嶺がよくそれを成した。白隠禅師の宗旨を大成した者は、東嶺和尚であると言わなければならない。そのため白隠下では、東嶺・遂翁の二大弟子のことを、“微細東嶺、大器遂翁”と呼ぶのである。
『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より
※写真は東嶺円慈画賛「払子図」(禅文化研究所蔵)。