逸話(7)白隠門下 その2-東嶺円慈(2)

前回に続いて、白隠禅師の高足、東嶺禅師の逸話から。

 


白隠禅師も晩年になるとその気力にもようやく衰えが見え、東嶺は、禅師に代わってよく修行者を激励した。禅師の晩年に参じた者は、おしなべてその道力もいい加減なものだが、峨山慈棹や頑極禅虎などは、しばしば東嶺和尚の指導を受け、そのため、物事を一目見た途端に看破してしまう敏捷な者たちである。

ある時、白隠禅師は京都の等持院の拝請を受けられたが、すでに八十四歳、老病も甚だしく、代わりに東嶺を行かせることにされた。東嶺は等持院に赴き、『人天眼目』を提唱した。四百余の大衆が集まり、大いに白隠禅師の宗風を振るった。その法会の最中、白隠禅師の遷化を知らせる訃報が届いた。東嶺は、解制後、速やかに松蔭寺に帰り、遂翁とともに葬儀を営んだ。

これは、東嶺が等持院に赴く以前の話である。
等持院の子院にいた十七、八歳ぐらいの小僧が、ひそかに北野の遊女と通じ、その情交は日に日にたかまっていった。ある夜、院主の留守をうかがい、百金の大金を盗み出し、それを袋に入れ、遊女と手をたずさえ、宵に紛れて出奔した。伏見から船に乗り、大阪に着いた。さて、懐をさぐると盗んだ金がない。
「昨夜、金の入った袋を柱の釘にかけておいたが、忘れて来てしまったか」
と、ひどくうろたえ、どうしてよいかわからず、進退、ここに窮まった。ついに、樹に縄をつるし、遊女と二人、首をくくって心中してしまった。
その夜、子院のわき部屋から、
「金の入った袋をここらにかけておいたが、どこにある。ああ、悲しい」
と、小僧の恨めしい泣き声が聞こえた。手で柱の釘をなで、壁や梁を探しながら、恨めしく泣くのである。小僧の声にまじって遊女の声も聞こえた。その後、毎夜、このようなことが続いた。その聞くも無惨な声に、子院の者は悩み続け、ついには皆な逃げ出してしまった。

ちょうどその頃、東嶺和尚が等持院に赴くことになったのである。
ある人が、子院の惨状を告げると、東嶺は、
「悩むことはない、わしがその部屋に入ろう」
と言って、その子院へ入った。すると、その夜から、幽霊の姿はパタリと出なくなった。
ある夜、東嶺は別の寺の求めに応じて子院を留守にすることになった。その時、三河の昌禅人という者が侍者であったが、この人も道力のある人で、この夜、留守番をすることになった。昌禅人が一人いると、美しい容貌の娘が現われた。娘は、
「お願いがあって参りました」
と、丁寧にお辞儀をして言った。昌禅人が、
「言ってみなさい」
と言うと、娘はこう語った。
「わたしは、この世のものではありません。実はこの寺の小僧さんと駆け落ちしたのですが、お金を忘れたために大阪で首をくくり、今になっても苦しみの世界からのがれることができずにおります。どうか、大善知識であられる東嶺和尚さまに救っていただきとうございます」
昌禅人が、
「どうして、自分でお願いしないのだ」
と尋ねると、娘は、
「和尚さまのように徳高きお方に、わたしのような卑しいものが近寄れるものではありませぬ。ましてや、わたしはあの世のものです。どうか、お願いいたします」
と頼んだ。昌禅人が、その頼みを承知すると、娘はすぐに消え去った。
昌禅人が、院に帰った東嶺にそのことを話すと、東嶺は、
「そのようなことがあるものよのう」
と憐れみ、読経のおりに浄水を設け、施餓鬼の法要をつとめ、娘のさまよえる魂を供養した。それからは、二度と幽霊が出ることはなかった。
その後、昌禅人は、若くして世を去った。東嶺は、その死を悲しみ惜しんだという。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より