前回に続いて、遂翁元盧禅師の逸話をもう一つ。
白隠禅師が八十歳の年、門下の高弟たちが協議し、『大応録』を提唱する法会(ほうえ)を開いてもらうことになった。遂翁は、住持を補佐する副司(ふうす)という役職を勤めた。その時、白隠禅師は軽い病にかかっておられたが、無理して講座に登り、七百人の大衆が集まった。その法会も無事円成し、解散が近づいたころ、東嶺和尚が、
「慧牧を松蔭寺の後継ぎにさせてはいかがですか」
と、白隠禅師に進言した。禅師も承諾し、東嶺が遂翁に告げると、遂翁も了承した。
東嶺の祝賀の偈に曰く、
南嶽三生蔵の老僧
黄梅七百衆の盧能
伝衣(でんえ)の事畢(おわ)って芳燭を続(つ)ぐ
且喜(しゃき)すらくは松蔭に慧灯を留むることを
かくして遂翁は京都花園の大本山妙心寺に上り、その法階を妙心寺第一座に進め、自ら酔翁と号した。宿坊養源院の院主がそのわけを問うと、遂翁は、
「わしは酒が好きだ。よって酔翁と号す」
と答えた。その答えを聞いた院主が、
「それはまた無茶な。酔を遂とすればどうだ」
と勧めると、遂翁も、
「遂にするのもよかろう」
と承知し、遂翁と号するようになった。
妙心寺での転版の儀式の後、大阪に遊んだ遂翁は、十二月になってようやく松蔭寺に帰った。その時の偈に云く、
明和元年六月旦
微笑塔前、旧規を攀(よ)づ
臘月帰り来たって破院に住す
業風(ごっぷう)を空却して吹くに一任す
松蔭寺に帰った遂翁は、白隠禅師と同居することを望まず、庵原(いはら)に一人住まいをした。
三年後、白隠禅師の病が重くなると、松蔭寺に帰って看病をした。そして禅師が遷化(せんげ)されると、遂翁はその法席を嗣(つ)いで松蔭寺の住持となった。
しかし、事を事ともせず、勝手きまま。参禅に来る者があると、
「わしは、何も知らぬ。龍沢寺に行って東嶺和尚に参禅せよ」
と言うだけで、一言の指導もなく、口を閉ざすこと七年であった。しかし、遂翁に随う雲水は常に七、八十人もいた。ところが、雲水が教示を求めれば、
「東嶺和尚のところへ行け」
と、相変わらずの一言であった。
遂翁がこんなふうだから、大休和尚や霊源和尚などは、しばしば手紙を送って遂翁に開法させようとした。しかし、遂翁は我れ関せずであった。