逸話(13)白隠門下 その8-霊源慧桃

今回は白隠門下で、のちに天龍寺へも出世した霊源慧桃禅師(1721~1785)の逸話をご紹介します。


blog_聴松堂_163b_8A4A5505.jpg「病苦の中で大悟」

霊源慧桃和尚は、松蔭寺の白隠禅師のもとで長く修行し、日夜、おこたらずに参究した。松蔭寺から二十里ばかり離れたところに庵居し、松蔭寺への往来は、黙々と叉手当胸し、よそ見などはせず、同参の者に逢っても、ただ低頭するのみで、一言の言葉も交わさなかった。
ある時、同参の者が集まって、
「桃兄には、何か悟ったようなところも見受けられるが、どうもその程度がわからぬ」
と、霊源のことを話し合った。そこで、一人の僧が、
「まあ待て、わしが慧桃の力量を調べてやろう」
と言い出した。
翌日、道で霊源に逢ったその僧は、
「桃兄、〈疎山寿塔〉の公案、作麼生」
と問うた。しかし、霊源は、いつもと同じように、ただ低頭して去って行くばかりであった。そのため、誰も霊源のギリギリのところを知ることはできなかった。
その後、霊源は臍に腫れ物を患い、百余日の間、苦しみもだえた。そして、その苦しみの中で、〈疎山寿塔〉の公案を悟ったという。
霊源和尚は朴実な性格で、文字や言葉に頼らず、ひたすら艱辛刻苦、修行をした。それゆえ、和尚が身につけた道力は、大いに他の者をしのいでいたという。
その後、丹後の全性寺に住し、さらに天龍寺僧堂に出世し、多くの修行者を集め、その地方の大宗匠となった。
のちに妙心寺の住持となった海門禅恪和尚が、霊源和尚に相見したことがある。
霊源が京都に赴く途中、海門は、その前に進み出て、
「小生は、提洲禅恕和尚が法嗣、海門なり」
と、問答をしかけた。すると霊源は、にわかに手を伸ばして海門に突きつけ、
「わしの手は、仏の手にくらべてどうだ」
と迫った。海門は、言葉に詰まった。そこで霊源は、すぐに海門を踏み倒したという。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は「蘆葉隻履図」(霊源慧桃書/禅文化研究所蔵) 禅文化研究所デジタルアーカイブズ「禅の至宝」より