仏誕生

 

blog_MG_8579.jpg 昨日は4月8日。お釈迦さまの誕生日でした。

祖師がたの「降誕会」の偈頌を読む機会もあると思います。
その中で、「雲門」や、その異称の「韶陽」が出れば、雲門文偃の以下の拈評を言います。

マーヤーの右脇から誕生したばかりの世尊は、七歩あるいて、「天上天下、唯我独尊」と言われました。この世尊の故事を評して雲門は、「我れ当時(そのかみ)、若し見しかば、一棒に打殺して、狗子(くし)に与えて喫却せしめて、貴ぶらくは、天下太平を図(はか)りしに」と言ったのです。「俺がその場にいたら、その赤子を打ち殺して犬に食わせたものを、そうすれば、天下は太平であったのだ」というような意味です。なんともブッソウな話ですが、禅宗僧侶は、憶えておきましょう。

さて一休さんは、「釈迦という/いたずら者が/世に出でて/多くの者を/迷わするかな」と歌っておられます。

これらは、本有仏性(生きとし生けるものは、生まれながらにして仏性をそなえている)という、高い悟りの境地から言われたものですので、雲門や一休を真に受けて、間違っても花御堂の誕生仏を叩いたり、甘茶を引っ繰り返したりはしないで下さいね。

一休さんの歌に、「おさな子が/しだいしだいに/知恵づきて/仏に遠く/なるぞ悲しき」とあります。
降誕会、寺に参詣し、誕生仏に甘茶をそそぎながら、知恵がついていないおさな子に返って、仏に近づいてみましょう。

降誕会、多くの寺院では、旧暦の5月に行なわれているようです。
一休さんの道歌は、伝承を超えるものではありません。

ところで、赤ちゃんの瞳って、何であんなに澄みきって綺麗なのでしょうか。